源義仲と云えば、あの平家の大軍に小勢で大勝利を勝ち取った源氏の大将である。
為義の二男である源義堅は、関東の大豪族である秩父氏の婿養子になっていた。
この秩父氏と相模国の三浦介の一族とは、犬猿の仲であり毎日のように夜討ちの掛け合いを行っていた。
三浦介の婿養子には、源義堅の甥に当たる源為朝がいた。
この為朝は、剛球の弓を弾く名手であり日本国の武士で為朝の右に出る者はなかった。
現在で云うオリンピック選手の金メダル保持者である。
この三浦介の婿養子源為朝が、小勢を率いて秩父氏の館を襲った。
源義堅も、激しく応戦した。しかし源為朝は、三浦介の家来で弓の名手を厳選して攻め立てた。
この不意討ちには、さすがの合戦上手の源義堅もお手揚げであった。
源義堅は討死した。源義堅は家来を呼んで、息子と妻を木曽の金藤と云う武士の所に連れて行くようにと頼んだ。
この金藤とは、父親の源為義の第一の家来であり源義堅の乳母だった。
家来は秩父地方から、木曽地方まで乳飲み子を連れた若い女と3人での逃避行を決行した。
途中には、熊に襲われたり地域の武士団に襲われたりと苦難を乗り切り木曽の金藤の館にたどり着く事が出来た。
金藤は大いに驚いた。と同時に喜んでいた。
源氏の御曹司を我の手で育てる事が出来るぞ。
我の手で育てるならば、一層の事天下を狙うような武将に育てたいものだと言った。
この武将が、木曽の義仲である。
木曽地方の武士で、義仲に勝てる武士などいなかった。
金藤は云う。この御大将ならば天下に号令を掛ける武将かもしれないぞ。
と云って自分自身の息子二人を近習として仕えさせた。
この木曽の義仲が、平家一門の人々を京都から追い出した第一の功労者であった。