令和4年2月11日の事【1】

源頼朝の長男源悪源太義平は、関東地区の大大名三浦介の婿養子に入ったのでございます。

悪と云っても道徳的に悪と云う事では無く強いとか勇ましいと云う意味合いでございます。

しかしながら源悪源太義平は、本当に悪でございます。

夜討ちあり、朝駆けあり何でも合戦に勝つ為には手段を選ばない合戦スタイルでございます。

しかし源氏の嫡流家の家筋でございます。

勝てば良いと云っても、卑怯を武士は嫌います。

源悪源太義平も、騙し討ちとかは好まない武士でございます。

そして武蔵國の大大名に、秩父家が存在したのでございます。

相模國の三浦介と武蔵國の秩父家は、仲が悪く合戦ばかり行っていたのでございます。

秩父家でも、武家貴族源氏系統の婿養子が欲しい旨を源氏の棟梁家源為義に頼み込んだのでございます。

そこで源為義は、関東地区での源氏勢力圏拡大に向けて次男源義賢秩父家の婿養子にしたのでございます。

源義賢は、源義朝の弟であり相模國の婿養子源悪源太義平は甥に当たる人物でございます。

そして相模國三浦介の婿養子に入った源悪源太義平は、家臣筋を率連れて秩父家に夜討ちを仕掛けたのでございます。

秩父家では不意討ちに対処出来ずに、大切な婿養子源義賢を討死させてしまったのでございます。

この源義賢の息子が、後に平家を宮から追出す功労者源木曽患者義仲でございます。

この秩父家の婿養子源義賢と云う人物は、何故か近隣の武士団たちに人望が存在したのでございます。

そこで源木曽患者義仲が、平家打倒の軍勢を催した時には源義賢の息子さんに加勢すると称して秩父地区の武士団も応援📣に馳せ参じたのでございます。