令和4年4月2日の出来事🍀❤💋

朝筋トレは百%は達成でございます。

朝入酸素は今からでございます

理由は単にまだ寒いからでございます。

朝我が宗派浄土真宗本願寺派の読経は百ニ十%は達成でございます。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・現世利益和讃。

親鸞聖人バンザイ🙌でございます。

法然聖人バンザイ🙌でございます。

我が家の再興は間違い無しでございます。

我が事業の成功は間違い無しでございます。

源頼朝が運命が開けたのは、北条政子の存在があったからでございます。

源頼朝は、父親源義朝と兄弟縁者と共に平治の乱に参加したのでした。

そして源氏方は、平清盛の軍事力に敗北したのでございます。

しかしさすがは源氏でございます。

平氏が敷いた防衛線を掛け破り尾張知多半島に居る家臣筋の領地に逃げ込んだのでございます。

ところが元々の家臣筋の騙し討ちに合い、パンツを履く暇もなく討死していました。

そして血筋の良い三男源頼朝だけが、平清盛の恩情により助けられたのでした。

源頼朝の母親は、熱田神宮の大宮司職の姫宮でありれっきとした貴族でございます。

そして戦争に参加した源頼朝は伊豆國に流し者として済まされたのでございます。

源氏系統の人々は、諸国に散らばり一定の勢力を保っていました。

しかし源氏系統の人々は、一族間の纏まりが無く対立を繰り返していました。

源頼朝も、一族の後施を弔う為に読経三昧の生活をしていたのでございます。

そんな時に北条政子と出逢ったのでございます。

北条政子は、北条時政の娘であり婚期を逃した状態でした。

北条政子は、長女であり関東地区の武士に有りがちなたくましい意中の人に巡り会える機会がなかったのでございます。

そんな時に北条政子の好みと真反対な、京都育ちで武家貴族のやさ男源頼朝に出逢ったのでした。

北条政子は、何と家を捨てて源頼朝と手と手を取り合い駆け落ちしたのでございます。

時は平氏全盛の時代でございます。

北条政子と云う人物は、男児に産まれていたら源頼朝以上の大将になっていたかもしれません

しかし最終的には、弟の北条義時を助けて最大級の危機的状態の後鳥羽上皇陛下と合戦して北条家と鎌倉幕府を守り抜く事が出来たのでございます。