源平合戦では、元々は平氏政権の恩恵を受けていた坂東武者の面々でございます。
ところが平氏政権が、武家貴族としての本分を忘れて生え抜きの貴族化した事に対して反感を抱いていたのでございます。
そこで一方の武家貴族の棟梁源頼朝の陣に参陣したのでございます。
詰まり平氏政権を見限り、源氏系統の源頼朝に味方したのでございます。
そして源氏方の侍各の坂東武者は、手柄を土産に御大将源頼朝に領地の登記済証を要求したのでございます。
現在の埼玉県熊谷市を領地に持つ熊谷二郎直実と云う武者も、元々主君筋の平氏の武士を数多殺傷していたのでございます。
源平合戦は、源氏方の大勝利に終了しました。
そこで真面目で平氏方の武士の首を数多殺傷してしまった武士程悔いの心が生じたのでございます。
その大表各の坂東武者が、熊谷二郎直実だったのです。
熊谷二郎直実は、法然聖人の寺に相談したのでございます。
熊谷二郎直実は、法然聖人に訪ねました。
自分自身は、元々主君筋の平氏方の武士を数多殺傷しました。
しかし合戦が終了すると、主君筋の首を数多殺傷した事に毎日毎日悩まさています。
そこで法然聖人に訪ねたいのでございます。
自分自身が仏様の慈悲深い心に導かれる方法を教えて頂きたいのです。
すると法然聖人は、優しい眼差しで二郎直実に云ったのでした。
ただひたすら南無阿弥陀仏を称えなさいと云うのです。
熊谷二郎直実は号泣してしまいました。
きっと法然聖人から、自分自身の手や足を切り刻む事をしなけば仏と縁を繋ぐ事が出来ないと云われると想い短刀を用意していました。
其れがただ南無阿弥陀仏を称えるだけで良いという法然聖人の言葉が余りにも有り難くて号泣してしまったのでございます。
其れからは、関東地区の領地を全て子息に譲り自らは南無阿弥陀仏の行者になったのでした。
そして源頼朝から、時々阿弥陀仏の法話をするように求められたのでした。
しかし阿弥陀仏の法話をしていると、苦しかった源平合戦の話に及ぶのでした。
やはり熊谷二郎直実は、根っからの僧侶にはなれなかったのでございます。