令和4年3月25日の出来事💋❤❤

朝筋トレは8割方達成したのでございます。

朝入酸素は今から実行する予定でございます。

朝我が家の宗派浄土真宗本願寺派の読経は実行するのでございます。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・現世利益和讃。

親鸞聖人バンザイ🙌でございます。

法然聖人バンザイ🙌でございます。

我が家の再興は間違い無しでございます。

我が事業の成功は間違い無しでございます。

平安時代の公卿集団の政治は終わり、武者の政治に切り替わるのでございます。

公卿集団も、生え抜きの文官貴族から武を持って朝廷に奉職する武官貴族が数多存在したのでございます。

ところが武家貴族の平氏の台頭は、世の中の状況を一変したのでございます。

秩序や法律に元ずく政治では無く、実力本位の集団が政治を動かして行く政治に変化したのでございます。

武家貴族は、貴族と云いながら実際は暴力集団の集りでございます。

貴族階級は、朝と夜の2回の食事ですが武家貴族階級は肉体労働が主たる仕事でございます。 

そこで毎日の食事も、現在と同じ朝と昼間と夜の3食でございます。

朝から畑仕事であり、昼間は喧嘩や近隣住民に殴り込みなど肉体労働ばかりでございます。

また日々の武芸の鍛錬や、鷹狩りなど遊びでは無く合戦の予行演習でございます。

そして平氏の政治では、諸国に散らばる武家の要望を忘れて平氏が生え抜きの公卿集団の真似事をする事に終始したのでございます。

そして源氏系統の源頼朝は、朝廷が存在する京都を離れて関東地区に武家の拠点を置いたのでございます。

しかし鎌倉幕府の実力者北条家は、最初の内は畏まって政治を行っていました。

ところが最終的には、北条家の分をわきまえる事が無くなり分不相応な行動が数多診られたのでございます。

北条家は、鎌倉幕府執権職と威張り散らしていますが血筋は誰か判らないのでございます。

そして源氏の氏の長者足利治部太夫尊氏が、鎌倉幕府を倒幕したのでございます。

足利治部太夫尊氏は、室町幕府を京都に置くか鎌倉に置くかで迷い込むのでございます。

しかし武闘派であり西國の武家の支持母体を数多持つ足利家執事職高師直の意見を取り入れて京都に室町幕府を置いたのでございます。

しかし室町幕府は、有力守護大名の寄り集まりでございます。

足利幕府将軍職の想いのままの政治が出来ず、各地域の有力守護大名の意見を取り入れる政治が必要でございました。

武家の棟梁各が存在しない政治は、守護職大名たちの利害調整が上手く行く事が無く応仁の乱が勃発したのでございます。

今でも京都の人々は、先の合戦はと尋ねると応仁の乱と答える人々が数多存在するのでございます。

その兵乱の中から、突如として現れたのが室町将軍家の申次衆を歴任する家筋伊勢新九郎盛時でございます。

この人物こそ、大器晩成を願うの憧れの人でございます。

足利幕府の申次衆を辞任した後には、応仁の乱の勃発で禅宗の僧侶になり修行したのでございます。

ところが56歳にして、駿河國の守護職大名今川家の客将となり城を任さたのでございます。

そして88歳にして、伊豆國と相模國2カ国の戦国大名となったのでございます。

戦国大名は、幕府の権威から離れて自らの國に法律や規則を造り國の運営をして行くのでございます。

私自身も、伊勢新九郎盛時と同じ道を歩んで行く所存でございます。