足利尊氏は、鎌倉幕府の執権職北条家を滅ぼす事に成功しました。
ところが後醍醐天皇率いる公卿集団や、新田義貞!楠正成!名和長年などの武士たちと権力争いを始めたのでございます。
新田義貞や名和長年には、後醍醐天皇が味方しているために錦の御旗の威力は凄まじく足利将軍家に従っている武士の中でも動揺する武士が続出したのでございます。
こんな時に九州地区の名門中の名門大友家が進み出て、足利尊氏に進言したのでございます。
我が九州地区の豊後国で骨休めに来る事はどうでしょうかと云ったのでございます。
血筋の上では、どの武家よりも武家の棟梁各の武将でございました。
今の慶應義塾大学の学生たちは、親代々の家柄が良い子弟が数多存在するために日本一難しい司法試験受験生同士が手を取り合いながら合格発表を待つ光景がございます。
一方東京大学を筆頭に、各地の国立大学の学生たちは一緒に司法試験合格を目指す事も無く誰々が落ちてくれないかと考えるようでございます。
足利尊氏に付き従っていた武将は、鎌倉幕府の時代から守護職クラスの大名が多く他人様を追い落として自分自身だけ助かろうと考える人は皆無でございます。
因みに我が先祖は、足利尊氏に付き従っていたのでございます。
しかし守護職大名では無く、九州地区の名門少弐家の家臣筋で佐賀の地頭職クラスの武将として参陣していたのでございます。
一方新田義貞の家も、源氏の名門ではございますが鎌倉幕府の中では冷遇され続けて地頭職を拝命していただけの武家でございます。
また楠正成も、荷役業者の組合長のような存在であり、武家の名門とは違っていたのでございます。
また名和長年に至っては、出雲地区の海沿いの漁師であり網元の家の人でございます。
足利尊氏は、大友家の勧めによりて別府地獄めぐりを楽しんだのでございます。
其れから九州地区から、またまた京都に攻め登りました。
すると行く先行く先で、地元の武士団が我も我もと付き従っていたのでございます。
そして最終的には、明石の浜に到着した時には全国の武士の九割が足利尊氏の陣に参集していたのでございます。