朝筋トレは百%実行したのでございます。
朝入酸素運動は後2時間後には実行する予定でございます。
朝我が家の宗派浄土真宗本願寺派の読経は百%は実行したのでございます。
親鸞先生バンザイ🙌でございます。
法然先生バンザイ🙌でございます。
我が家の再興は間違い無しでございます。
我が事業の成功は間違い無しでございます。
我が家は九州地区に存在するのでございます。
鎌倉幕府は、関東地区の御家人たちの中から強い武者を選抜したのでございます。
そして九州地区の各國に守護職や地頭職として配置換えしたのでございます。
九州地区は、異国人との接触が数多存在し何時でも攻め込まれても対処出来る武者を配置したのでございます。
だから九州地区の御家人は、関東地区出身者の武者が数多存在するのでございます。
島津家や大友家や宇都宮家や伊東などの、関東地区出身者がづらりと並び立っているのでございます。
今も九州男児と云う言葉が存在するのでございます。
私自身も、一様は九州男児でございます。
もしも合戦が勃発したら我が家に伝承されている家系図を持ち合わせて合戦に参陣する予定でございます。
異国人には、我が家系図を披露したとしても理解出来無いかもしれません。
その鎌倉時代に移転した大友家の家臣筋に、立花宗茂と云う戦国武将が存在するのでございます。
大友家は、一時的には九州地区の半分以上を領地にした事がある実力者でございます。
しかし九州地区で一番強いと云われていた島津家の北上に伴い大友家は衰退して行くのでございます。
因みに我が家も、島津家と有馬家連合軍に打ち負かさて惣領家は首を跳ねらてしまったのでございます。
大友家の家臣筋の中でも、落ち目になっている主君筋大友家を裏切る武者も数多存在したのでございます。
しかし大友家の中でも、歴戦の勇士高橋紹運と立花宗茂の義理の父親だけは落ち目の大友家を見捨てる事はなかったのでございます。
大友家は、大阪の豊臣秀吉に援軍を要請したのでございます。
しかし島津家の北上は継続されたのでございます。
立花宗茂の父親高橋紹運と義理の父親立花氏は、島津家の大軍と3百騎馬の小勢で一歩も譲らなかったのでございます。
島津家の惣領家も、高橋紹運と立花氏の武勇に惚れ込んでいたのでございます。
そこで助け船を出し降伏するように促したのでございます。
しかし高橋紹運と立花氏は、弱めの主君を見捨てる事は武門の恥だとして合戦して死んだのでございます。
高橋紹運の妻は、婚約した後に病で顔立ちが崩れてしまったのでございます。
高橋紹運と婚約した妻は、婚約を破棄する事を要求したのでございます。
ところが高橋紹運は、婚約者に云うのでございます。
自分自身は貴女の顔立ちに惹かれたのでは無く、心根に惹かれたのでございます。
だから顔立ちが崩れたから婚約破棄する事など必要性は無いと云って結婚したのでございます
その子供が立花宗茂でございます。
高橋紹運と一番の親友である立花家には、男児がいなかったのでございます。
そこで高橋紹運は、息子宗茂を立花家に養子に出したのでございます。
そして豊臣秀吉は、立花宗茂の器量を見抜き筑後國柳川13万石の大名に取立てたのでございます。
立花宗茂は23歳の時でございます。
その後は合戦につぐ合戦の日々でございます。
しかし合戦は無敗でございます
一度も合戦に負けた事が無いのでございます。
あの武田信玄も、立花宗茂に面会を申し込む程の人物でございます。
しかし関ヶ原の戦いでは、恩義ある故豊臣秀吉から大名に取立てて頂いた事の義理を通す意味合いもあり石田三成方に味方したのでございます。
その合戦でも、立花宗茂は大津城を攻め落としたのでございます。
しかし関ヶ原の戦いの本戦では西軍石田三成方の大敗北でございます。
立花宗茂も、責任を取り柳川藩主から浪人生になってしまったのでございます。
しかし合戦では、毎回のように加藤清正や福島正則などを自分自身の身を顧みる事無く助けていたのでございます。
そこで立花宗茂の家臣筋は、皆加藤清正や福島正則が家臣筋として取立てたのでございます。
そして江戸幕府は、ある決断を下すのでございます。
何と立花宗茂を、旧領地柳川藩の藩主に復帰させたのでございます。
此れは徳川秀忠の英断でございます。
また徳川家康も、立花宗茂と親しい間柄であり立花宗茂の事を買っていたのでございます。
加藤清正の家臣筋になっていた元々の立花宗茂の家臣筋は皆が立花宗茂の家臣筋に復帰したのでございます。
福島正則の家臣筋になっていた元々の家臣筋も同じでございます。
加藤清正も福島正則も、快く立花宗茂の家臣筋を手放したのでございます。
私自身の先祖の惣領家も、立花宗茂を見習い鍋島弾正忠家を少し信用していたならば家を乗っ取られる事もなかったかもしれません。
また我が家も、足軽大将5石取りでは無く家老職くらいの職には就けたのではないでしょうか