加藤肥後守清正と云えば、関白豊臣秀吉の家臣であり秀吉の妻政所の従兄弟筋に当たる人物である。
関白豊臣秀吉が、未だ織田上総介信長の家臣筋であった頃に自分自身の親類縁者や妻の親類縁者から人々を家臣筋に採用していた。
一様は秀吉の妻の実家は、下級武士であり加藤清正の家柄も下級武士兼鍛冶屋で生計を立てていた。
木下藤吉郎秀吉は、織田上総介信長の元でトントン拍子で出世していた。
木下藤吉郎秀吉には、二人の有能な人々がいた。
一人は、木下藤吉郎秀吉に最初から付き従っている矢作川近辺を縄張りにしていた蜂須賀小六と云う野盗集団である。
もう一人は、美濃国の国守斎藤道三の家臣である竹中半兵衛重治と云う人物である。
戦国時代には、蜂須賀小六のような野盗集団の存在意義が強かった。
戦国時代は、武力行使が一番の武器である。
あのヨーロッパ諸国から日本国に来ていた宣教師たちも、本国に日本国の実情を手紙で送り付けている。
手紙の内容は、日本国には鉄砲も日本刀も数多存在している。
もしもヨーロッパから船団を組んで日本国征服に来ても勝ち目はないと云う内容である。
木下藤吉郎秀吉は、織田上総介信長から城🏯持ち大名に任命された。
織田上総介信長の家臣筋には、先祖代々から織田家に奉職している柴田家や丹羽家や池田家などがある。
この家臣筋を飛び抜けて木下藤吉郎秀吉が城🏯持ち大名に任命された。
近江国は、織田上総介信長が攻め滅ぼした浅井長政の領地である。
敵将の領地だから、人当たりの良い木下藤吉郎秀吉は適任と織田上総介信長は考えた。
織田上総介信長の人選は的中した。
領民たちの暮らしぶりも安定して木下藤吉郎秀吉は名君として慕われた。
この木下藤吉郎秀吉の下で働いたのが、加藤清正と石田三成の二人であった。
そして織田上総介信長は、明智日向守光秀の謀反により呆気なく滅びてしまった。
その後木下藤吉郎秀吉は、関白太政大臣豊臣秀吉として武家の棟梁として君臨した。
ところが豊臣秀吉は、中国大陸に攻め入ると云う命令書を諸大名に出した。
加藤清正も、真っ先に大陸に攻め入った。
勇猛果敢な加藤清正は、毎回の合戦で連戦連勝であった。
ところが図に乗り過ぎた加藤清正は、何と虎に襲われてしまった。
其れも百匹もの大群である。
加藤清正も覚悟を決めた。
その時九州の武将立花宗茂が現れて、加藤清正と共に虎の大群を切伏せた。
その後豊臣秀吉の時代も終了した。
次の天下統一者は、徳川家康であった。
ところが立花宗茂は、豊臣秀吉には恩義があると云って徳川家康に反抗した。
当然の事ではあるが、立花宗茂は大名の立場を失い浪人生となった。
また浪人生となった立花宗茂にも、金銭的に援助をした。