平清盛を総大将とする平氏一門衆は、武家の身分でありながら後白河天皇様の王子様望仁王を討ち取った。
また源義仲も、家臣筋としての分をわきまえず後白河天皇様の館を丸焼にした。
この家臣筋でありながら分不相応な振る舞いが神仏の怒りを買い天照大御神やその他の神々の怒りにより滅び去ったと考えたのでございます
そこで源頼朝は考えました。
九州地区に数多存在する反平氏の武士団を騙して、西恵比寿として公卿に蔑まれていた武士団に平氏を討伐させようとしたのでございます。
九州地区には、朝廷の出先機関である太宰府と云う役所が存在したのでございます。
そして太宰府の大弐職は、生え抜きの公卿が就任して京都に居て地方に赴任する事はございません。
ところが武家出身の平清盛は、自ら太宰府に出勤して九州地区の武士団をこき使ったのでございます。
そこで平清盛は、九州地区の武士団に嫌われていたのでございます。
源頼朝は、保元の乱の時には13歳の青年であり父親や兄上たちと共に合戦に参陣していたのでございます。
宮に居た源頼朝は、様々な平氏一門衆に対する不平不満を自分自身の肌感覚で感じ取っていたのでございます。
そこで源頼朝は、平氏一門衆が御護りしている先の天皇陛下安徳帝に絶対に手出しをしてはならない旨家臣筋に徹底していたのでございます
また平氏一門衆や安徳帝は、九州地区の武士団に合戦させて天罰が下っても坂東武者では無く西恵比寿に天罰が下るようにさせたのでございます。
そして源頼朝の弟である源範頼を大手口の総大将に指名して坂東武者の中でも三浦介や千葉介や小山や宇都宮や秩父氏などの大大名クラスの武士団を家臣筋に指名しました。
一方搦手の総大将には、源頼朝の弟源判官義経を指名したのでございます。
源義経の家臣筋には、坂東武者の中では小クラスの武士団を指名しました。
源範頼は、京都から九州地区まで敵地の領地の中を食糧を調達しながら等々九州地区まで到達したのでございます。
そして九州地区の武士団たちを騙して、元々の主人筋である平氏一門衆を壇ノ浦の戦いで打ち破ったのでございます。
鎌倉幕府は、本拠地が本来的には関東地区にある武士を九州地区や中国地区に地頭職として指名しました。
宇都宮や伊東や島津なども、関東武者でございます。
また毛利元就の先祖や大友宗麟の先祖なども、関東の武士でございました。
元々九州地区を地盤としていた武士の中にも、源頼朝から地頭職に指名される事も出来ず職替えをした武士も存在したのでございます。
因みに我が先祖は、元々は坂東地区の下野国の住人でございます。