令和4年1月25日の事【2】

朝入酸素運動は70%は実行したのでございます。

内容は1時間の散歩でございます。

筋肉トレーニング&体操は80%は実行したのでございます。

内容は3キログラムのダンベルの二百回の上下運動の実行でございます。

朝我が先祖の宗派浄土真宗本願寺派の読経の実行でございます

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・現世利益和讃。

親鸞先生バンザイ🙌でございます。

法然上人バンザイ🙌でございます。

我が家の再興&復興は間違い無しでございます。

我が事業の急上昇気流に乗る事間違い無しでございます。

我が先祖の惣領家は、同じ肥前國の大名有馬家に裏切りに遭遇して倒産したのでございます。

しかし豊臣秀吉は、一様は肥前國と肥後國と筑前國と豊後國を領地にしていた我が先祖を肥前國一国の国主に指名したのでございます。

ところが我が先祖の惣領家は28歳と云う若さでございます。

そこで豊臣秀吉は、我が先祖の惣領家の家臣筋で能力者鍋島弾正忠家を後見役に据えたのでございます。

しかし実際は鍋島弾正忠家が国主のような立場でございました

我が先祖の惣領家は、肥前國に居る事を許されず豊臣秀吉の近習として大阪府に居たのでございます。

肥前國の政治は、我が先祖の惣領家後見役鍋島弾正忠家が仕切っていたのでございます。

豊臣秀吉の命令によりて、朝鮮半島に出陣した最にも肥前國の指揮官は鍋島弾正忠家でございます。

我が先祖の惣領家は、形式上は肥前國の国主筋でありながら大阪府に人質生活する事が嫌になってしまったのでございます。

そこで妻に娶っていた鍋島弾正忠家の姫君を、刺し殺して自分自身も毒薬を飲み自殺したのでございます。

ところが毒物の量が不足気味だったので、豊臣家の医師に助けられたのでございます。

しかし最終的には、馬から落馬して死んでしまったのでございます。

豊臣秀吉から徳川三河守家康が江戸幕府を創設したのでございます。

しかし鍋島弾正忠家と徳川三河守家康は、仲が良く正式に肥前國の守に鍋島弾正忠家が指名されたのでございます。

鍋島弾正忠家の石高は、35万石でございます。

本来的には、我が先祖の一門衆三八家の領地でございます。

ところが我が家の一門衆三八家のほとんどは、江戸や大阪や京都に行き浪人生活を余儀なくされたのでございます。

我が先祖は、鍋島弾正忠家の足軽大将として5石取りの家臣筋ではございますが食べて行く事が出来ず内職に精を出していたのでございます。

そんな時に、我が先祖の惣領家が江戸幕府に訴訟を提起したのでございます。

江戸幕府でも、正式な訴訟の提起であり受理するほかはありませんでした。

そして鍋島弾正忠家と我が先祖の惣領家は、江戸城で訴訟合戦を繰り広げたのでございます。

しかし我が先祖は、訴訟に勝つ事など出来ず会津藩保科家に客将の身分で預けられたのでございます。

保科家と云うと、江戸幕府三代将軍家の弟君であり名君として鳴らしていたのでございます。

保科の殿様は、我が先祖の惣領家を家臣筋に取立てて下さったのでございます。

其れも破格な石高でございます

ところが明治維新の前に、尾張國名古屋藩から入部した松平吉保と云う殿様は薩摩藩長州藩との合戦を繰り広げたのでございます。

この合戦で、我が先祖の惣領家はまたもや戦死の憂き目に遭遇したのでございます。

その何百年前の事でございます

我が先祖は、化け猫を使い鍋島弾正忠家を滅ぼそうとしたのでございます。

しかし鍋島藩の忠義な武士が、自分自身の身を使い化け猫を斬り捨てたのでございます。

この化け猫の子孫は、我が館に今も生き抜いているのでございます。

化け猫は、生き血をぺろりぺろりと舐めると妙な力を発揮するのでございます。

私自身も、化け猫の子孫を飼い続ける事は怖いのでございます

しかし我が先祖が可愛がっていた化け猫は、私自身が飼うしかございません。

わぁ怖い怖い怖いです。