令和4年1月20日の事【1】

平将門の乱に呼応したように、西海では藤原澄友が兵乱を起こしたのでございます。

平将門は、桓武天皇陛下の親王殿下が官職に空席状況が無く平の姓を賜って天皇陛下の臣下に下り関東地区の上総國の介と云う階級の人として生きて行く決断をした家筋の人でございます

この人物が、平将門の叔父に当たる平國香と云う人でございます。

平國香の兄弟は五人存在したのでございます。

平将門の父親は、民人思いの優しい武将でございました。

官職は、鎮圧府将軍職を拝命して東北地区の反乱を鎮圧に数多出張していたのでございます。

ところが在る合戦に於いて、矢傷が元で還らぬ人となってしまったのでございます。

平将門は、幼い年齢で父親の領地を相続したのでございます。

そして叔父である平國香が、平将門の領地の管理人に就任して平将門が成人するまでの間の管理者に選任されたのでございます。

ところが叔父平國香は、平将門が幼い事に付け込んで将門の領地を自分自身の領地に登記をしてしまったのでございます。

平将門が成人すると、叔父たちが平将門が相続するはずの領地が半減した事を知ったのでございます。

結局は、平将門と叔父さんたちとの合戦は相続問題から端を発しているのでございます。

しかし平将門は、坂東武者の中でも1〜2を争う勇猛な武将でございます。

叔父さんたちが、数多の軍勢で攻め込んでも合戦では平将門側の連戦連勝でございます。

この平将門側の連戦連勝は、将門の武勇優れている事が理由ではございますが何と民人が自分自身の意思で平将門を助けていたのでございます。

一方で西海では、九州地区&四国地区&中国地区の税金が、何故か瀬戸内海で奪われて京都まで届かない事態に陥っていたのでございます。

伊予國に赴任していた大掾職を拝命していた藤原澄友が、伊予國の国司の命令に従い調査したのでございます。

瀬戸内海を縄張りにしている海賊集団が、夜な夜な徒党を汲み税金を積み込んだ舟から税金を奪取している模様である旨を報告したのでございます。

ところが伊予國の大掾職を拝命していた藤原澄友は、昼間は何食わぬ顔で役所の仕事をこなしていたのでございます。

ところが夜な夜な伊予國の大掾の仕事が終了すると、何と海賊集団の頭として税金の奪取を実行していたのでございます。

海賊集団の頭が、伊予國の大掾職を拝命していた藤原澄友なので役所の情報は海賊集団に筒抜けでございます。

幾ら伊予國の国府の軍勢が、海賊集団を討伐しようとしても逮捕出来る事が不可能でございます。

しかし平将門の反乱も討伐される。

また藤原澄友の反乱も、有能な国司の赴任によりて藤原澄友も逮捕されたのでございます。

藤原澄友は、れっきとした貴族でございます。

そこで藤原澄友は、肥前國に流罪と云う罪で終わったのでございます。

あの肥前國有馬家の先祖は、藤原澄友から家系図は始まっているのでございます。

一方で平将門の子孫は、福島県相馬市辺りの地主となり戦国武将相馬氏が平将門の子孫筋でございます。