藤原秀郷(俵藤太秀郷)

藤原秀郷の先祖は藤原鎌足!藤原不比等の子孫ではあります

しかし藤原鎌足の子供の藤原不比等には、四人の男子がいました。

四人の男子は、それぞれ別々に分家して独立した家を興しました。

北家!式家!京家!南家であります。

あの摂政関白殿下の家は、北家であり一番4兄弟の中では末っ子でありました。

ところが時の天皇陛下に可愛がられて、グングン出世してしまいました。

其れに引換え一番兄の南家は朝廷の官職にもあり付く事が出来ず地方自治体の国司に任命されていました。

そして下野国上野国の守などを歴任していました。

藤原不比等の子供でありながら、公卿にも就任する事も出来ず地方自治体の守の地位に甘んていた。

一方弟は、朝廷の高い地位に就任して天皇陛下の側近として権力を振っていました。

藤原南家は、宮で活躍する事は諦めて関東地方の守として領地拡大戦略に力を傾注した

そして関東地区の有力者と婚姻関係を結び、関東屈指の有力者に成長した。

この子孫に藤原秀郷が存在していた。

藤原秀郷は、関東地方の田舎豪族に不満を抱いていた。

何とかして宮の公卿に就任したいものだと思っていた。

そんな時関東地方で平将門が民人の気持を組んで謀反を起こした。


朝廷では平将門を討伐した武将には、従三位の位を与える事を表明した。


しかし平将門には勢いがあった。


また関東地方の民人たちが平将門を支えていた。


だから関東地方の有力者たちは、平将門を討伐すると云う者は皆無であった。


そんな時に藤原秀郷が名乗を表明した。


そして遂には平将門の油断に付け入り討ち取る事に成功した。


藤原秀郷は、地方自治体の有力者京都で従三位の位を手に入れた。


そして京都で公卿としての地位に加えて関東地方の有力者としても君臨した。


鎌倉時代の有力者には、藤原秀郷を先祖と仰ぐ御家人が数多存在した。