桓武平氏には、大きく分けて貴族平氏と武家平氏に分類する事が出来ます。
一方貴族平氏の人は、生え抜きの貴族でございます。
武家平氏は、桓武天皇陛下の孫が平氏と云う姓を賜って上総介と云う官職名で関東地区の地方役人の身分として生活したのでございます。
そして上総介から常陸国に人事異動になり、其れ以降は常陸国の大掾職を代々拝命していました
その人物が、あの甥である平将門に合戦で敗北して打ち取られてしまいました。
平国家の息子は、平定盛と云う人物であり平将門とは従兄弟同士でございます。
平定盛は、常陸国の大掾職を嫌い都に出て貴族の番犬的な職を拝命していました。
平定盛には、貴族風の優雅な一面が備わっていたので田舎武者の生活に馴染む事が出来なかったのでございます。
しかし平定盛上げ息子たちは、常陸大掾職を世襲していたために常陸国は桓武平氏の一族で満ち溢れていました。
そして常陸大掾家は、関東地区の豪族たちと婚姻関係を結び関東地区は桓武平氏の一族で満ち溢れていたのでございます。
ところが源頼義と源義家親子が、陸奥守兼鎮守府将軍職を拝命して東北地区の阿部一族を討伐に行くのでございます。
関東地区の豪族たちも、朝廷から任命された源氏の大将の指図に従い桓武平氏の一族でありながら源氏の統制化に組み入れられてしまいました。
その中でも平清盛の先祖が、源氏の統制化に組み入れられる事を嫌い遺跡や伊賀国に進出したのでございます。
元々常陸大掾職と云う地方長官の家柄だったので、伊勢や伊賀国でも国府の役人として奉職したくださいございます。
また先祖は桓武天皇陛下であり、血筋も良く教養も備わっていたので伊勢国や伊賀国の国司に任命されていました。
そして京都に進出して、貴族社会に交わる事になりました。
一方源氏は、東北地区の阿部一族や清原一族の統制に12年間もの年月を費やしてしまいました。
桓武平氏は、京都に進出して先祖は同じ桓武天皇陛下である生え抜きの貴族平氏の家と懇意にしたのでございます。
そして屋敷も、京都の街中の土地を買う事が出来なかったので墓所である六波羅蜜寺の土地を買い込んて屋敷を増築して行きました。
また妻時子の弟も、平清盛が出世すると同市に大納言まで昇進したのでございます。
まぁ生え抜きの貴族ですから、昇進した事には疑問符は付きませんが大納言職は生え抜きの貴族の中から5人だけしか選抜されない官職でございます。