島原の乱

肥前国島原は、有馬家が支配していました。

この有馬家の先祖は、瀬戸内海で窃盗や強盗などをした元締でした。

藤原澄友は、昼間は伊予国の介と云う立場で勤務していました。

ところが夜になると、九州から京都に向う船⛵を根こそぎ強盗していた。

藤原澄友は、次の朝になると伊予国府に介として出勤した

しかし藤原澄友は、或る夜京都に向う船を強盗したが何と船には武勇に優れた源家の人々が乗り込んでいた。

藤原澄友たちが、窃盗集団としても源家の人々は専門の職業殺傷団である。

忽ちに藤原澄友たちは、源家の人々に逮捕されてしまった

朝廷では藤原澄友たちの処分方法に苦慮していた。

一様は藤原澄友は、伊予国府の次官である。

その次官が、窃盗集団の大将であると云う事がバレたならば朝廷の権威に傷が付く。


そこで肥前国島原の地に流し者として処理した。

ところが藤原澄友は、元々海賊集団の元締である。

肥前国の武士たちは、忽ちに藤原澄友の家臣筋になっていた。


そして源頼朝が、鎌倉幕府を創設すると肥前国守護職大名に指名された。

この守護大名に指名された事を契機に、藤原姓から地名を取り有馬家と名乗った。


鎌倉から室町時代を通じて守護職大名を拝命した。


ところが戦国時代に突入すると、近隣の武士たちの力が増していた。


忽ちに有馬家は、肥前国守護職大名の立場を失った。


そして豊臣秀吉から、日向国延岡に国替えの憂き目に遭う


しかし有馬家に奉祀する家臣筋は、有馬の殿様に付き従い延岡に行く武士は少なかった


鎌倉から室町時代を通して代々住み慣れた土地である。


住み慣れた土地を簡単に手放す事など出来なかった。


そこで島原に残った有馬家の家臣筋は、武士の身分を捨てて農民に転職した。



この島原の地域に新領主として赴任して来たのが、島原の乱の勃発を招いた松倉と云う大名だった。


この松倉重政が、島原の農民に重税を課した。


しかし農民たちは、税金を払わない。


それどころか松倉重政の家臣筋を斬り殺したりした。


農民たちは、つい最近まてば有馬家の家臣筋であり武士である。


松倉重政の家臣筋を斬り殺したりする事は簡単である。


また遠い先祖は、瀬戸内海で暴れ回っていた海賊集団である。


松倉重政も暴力行為を得意分野としていたが、やはり九州地方の武士団には手が出せなかった。


そこで松倉重政は、地獄に入れたり身体に火を付けたりして虐め抜いた!