松倉重政と云えば、江戸幕府を開いた徳川家康に気に入られたいために自分自身の領地の石高を多く申請した。
石高を多く申請したために、江戸幕府に納める上納金が八万石相当分に跳ね上った。
普通の大名ならば、江戸幕府に対して石高を低めに報告する。
石高を低めに報告すれば、江戸幕府に納める上納金も低めに抑える事が出来る。
薩摩藩の島津家などは、実際の石高は八十万石あるのに五十万石相当分で申請した。
また熊本藩の細川家や仙台藩の伊達家などもなるだけ低めに報告した。
しかし松倉重政だけが、江戸幕府に気に入られたいために高く申請した。
高く申請すれば、税金の額も跳ね上がる。
松倉重政自身の税金と徳川家に納める税金を合算して取り立てる。
其れは松倉重政の領地である農民が働いて納める事になる。
松倉重政の領地の農民は、当然の事ではあるが反発する。
特に田舎の外様大名家は、士農工商の棲み分けが明確化していない。
江戸時代の初期の農民は、半分は武士のような生活習慣に慣れ親しんでいた。
松倉家は、元々松永弾正家に奉祀している武将である。
松永弾正と云えば、織田上総介信長にも反抗した骨太な武将である。
その骨太な武将松永弾正家の元で働く武士である。
松永弾正家の元で働く武士たちは、皆が気性が荒々しく暴力集団のような者の集合体だった。
自慢の温泉に漬けたり、農民に火を付けて丸焼にしたりと残虐な方法で苛め抜いていた。
その結果は、大規模な農民一揆に発展した。
本来的には、武士の情により切腹が基本型である。
しかし松倉重政は、切腹する事も許されず少しづつ丸焼にされてしまった。
松倉家は、一族郎党全滅の憂き目にあった。