為せば成ると云う言葉を発したのは、あの武士道上杉謙信公のお膝元う上杉家の殿様であります。
上杉家と云えば、足利家執事職を拝命した名族である。
あの戦場に於いて、兜の前立を愛と云うデザインを取付て相手方の武将を怯ませた直江兼続が活躍した藩である。
戦国時代の武将は、相手方を威嚇するようなデザインの兜を身に着けた。
ところが直江兼続は、何と愛と云う一文字を兜に付けて颯爽と現れる。
直江兼続は、愛妻家であり妻だけを愛している事を表現するための方法としての演技だった。
直江兼続の妻は、大いに驚き又喜んだ。
しかし関ヶ原合戦では、上杉家は石田三成方の武将として参戦した。
勝利者徳川家康は、上杉家百二十万石から三十万石まで減封した。
ところが直江兼続は、石高が4分の1に減らされても家臣の首切りを実行する事をしなかった。
しかし藩の財政破綻は、上杉家を苦しめる。
その上に吉良上野介家から、養子を迎える事になり財政破綻は更にひどくなった。
吉良上野介家は、源氏の名門であリ江戸幕府でも高家筆頭各の家柄として処遇されていた。
吉良上野介は、家の経費を息子が藩主である上杉家に肩代わりさせていた。
そして吉良上野介が事件を引き起こすきっかけになった忠臣蔵が勃発した。
上杉家は、忠臣蔵の事件処理のために莫大な出費が必要になった。
そこで上杉家では、九州高鍋藩相良家から養子を迎える事にした。
九州高鍋藩は3万石であり、上杉家より相当格下の大名である。
ところが格下の大名家ではあるが、養子縁組で迎えた殿様は頭脳明晰であり経済感覚に優れていた。
そして特産品の生産性を向上させて、遂には上杉家の借財を完済した上に貯蓄までした名君である。
この名君が、藩の重役たちとの茶会の席で詠んだ歌が為せば成る成さぬは人の為さぬなりであった。