龍造寺氏の苦悩

龍造寺家は、鎌倉時代から室町時代には現在の佐賀市の地頭職を拝命する氏族だった。

この龍造寺家の家臣筋には、あの鍋島弾正が江戸幕府から肥前国三十5万石の近世大名として任命された。

しかし鍋島弾正は、本来的には龍造寺家の家臣筋である。

ところが龍造寺家の大将が、島津と有馬の連合軍の合戦に敗北した。

島津と有馬は、勢いに乗じて龍造寺家の本拠地佐賀市に攻め込んだ。

龍造寺家の御大将は、合戦で討死した。

御大将の嫡男は、太り過ぎで合戦の指揮者として相応しくなかった。

そこで龍造寺家三十八家は談合して、合戦上手な鍋島弾正を大将に据える事を決断した。

鍋島弾正が云う。我も龍造寺家に仕える武士でございます。

龍造寺家三十八家の人々から御大将に推薦されたならば、大将を引き受ける事がしますと承諾した。

そして鍋島弾正の野戦が功を奏して、島津と有馬連合軍を佐賀市から追い払う事が出来た。

すると鍋島弾正が心変わりして、佐賀市の領地を主人筋の龍造寺家から奪い取ってしまった。

龍造寺家は、全国各地に散り散りになった。

そして徳川家康は、江戸幕府を開いた。

各地の大名が発表された。肥前国佐賀の大名は、鍋島弾正と名簿が江戸城に張り出さた。

今風に云うと司法試験合格者が法務省の中庭に張り出される事と同じである。

その張り出された落書を見つめていた武士がいた。

その武士は、本来的には佐賀市の領主である龍造寺家の人々であった。

龍造寺家の人々は、江戸幕府に訴訟を提起した。

しかし訴訟は却下されて、八丈島に流し者の憂き目にあった。

八丈島は、関ヶ原合戦と敗者となった宇喜多秀家が流し者として住んでいた。

宇喜多秀家は、八丈島で楽しく暮らしていた。

しかし龍造寺家の人々は、執念深い性格であり怨霊となって鍋島弾正家を呪い殺そうと毎日毎日考えていた。

宇喜多秀家は思った。九州地方の人々は、燃える男たちが多い事だと思った。