島左近

島左近。戦国時代の勇猛果敢な武士として、5本の指日本数える事が出来る人物。

一人は加藤清正。一人は福島正則。一人は立花宗茂。一人は島津義弘そして島左近

まだまだ武門に優れた武士団は数多存在した。

その中でも島左近は、立花宗茂島津義弘の中で1〜2を争う勇士である。

島津義弘は、関ヶ原合戦の中で石田三成の要請にも応ずる事も無く薩摩隼人としての見せ場を造り出す。

その見せ場とは、関ヶ原合戦の最中には微動だにする事も無く決戦も終了した時に島津義弘は口を開いた。


傍らにいた家臣に向かって問うた。

徳川家康殿の陣中で、どの軍勢が猛勢ぞと尋ねた。

家臣は答えた。伊井殿の軍勢が猛勢でございますと答えた。

すると島津義弘は云った。その猛勢を目掛けて突進せよと云った。

島津義弘の軍勢は、主人の考え方が手に取るように解っていた。

島津義弘は精鋭部隊は、一心不乱に伊井殿の陣を目掛けて突進した。

しかし伊井殿も勇猛果敢な武士団の棟梁である。

しかし島津義弘の軍勢は、九州各地の勇猛果敢な武士とを打ち破った精鋭部隊である。

さすがの勇猛果敢な島津義弘の軍勢も、伊井殿の人物中を突破する事は出来なかった。

島津義弘は、皆に方向転換を命令した。

島津義弘の軍勢は、右側によれて伊勢方面を目指した。

徳川家康は、皆に命令した。島津義弘の軍勢を逃すな。

生け捕りにしてくれと激を飛ばした。

しかし島津義弘は軍勢は、精鋭部隊である。

一人が立ち止まっては、敵陣目掛けて鉄砲を射掛ける。

この捨身の戦法と薩摩隼人に伝わる示現流と云う剣術で、徳川軍の勢いを止めた。

島津義弘に最後まで付き従う事が出来た武士は、80騎になっていた。

1500騎から80騎であり、如何に徳川軍の戦法が凄まじいものだったかが覗える。

此れは対して島左近は、石田三成の陣中に於いて15万石の軍勢では考えられない働きをした。

石田三成は15万石であり、軍勢も三千騎ほどであった。

この軍勢で福島正則藤堂高虎黒田長政の率いる軍勢5万騎を打ち破った。

そして島左近は、別働隊に命令して徳川家康の本陣に夜襲を命令していた。

島左近は夜襲を得意としていたのだ。

しかし殿様である石田三成は、大将軍が夜襲を仕掛ける事に難色を示していた。

そこで島左近の一存で、夜襲を指揮していたのだ。

そして夜襲が成功した暁には、自らの命を差し出す心持であった。

詰まり島左近は、切腹をする覚悟だったのである。

島左近は、何故に石田三成に思い入れがあったのか?

島左近のような武士ならば、どの大名も欲しがる人材たった。

しかし石田三成は、自分自身が豊臣秀吉から貰った石高が4万石であった時に、半分の2万石で島左近が欲しいと願った。

此れに感動した島左近は、2万石余りの石高で石田三成の家臣になっください。

他の大名の中には、1〇万石でも欲しがる武士も数多いた。

しかし石田三成は、自分自身の石高の半分出しても欲しいと願った武士である。

この石田三成の思い入れに感動した島左近は、この殿様の為ならば命も棄てる事が出来ると云って石田三成の家臣になった。

そして関ヶ原の合戦では、石田三成に恥をかかせる事も無く武勇を示す事が出来た。