遺恨あり

私自身も、佐賀鍋島藩武家の子孫でございます。


我が一門衆は、全部で三八家存在していたのでございます。


私自身の先祖は、一門衆三八家の中では最低ラインの石高であり八石持ちの地主でございます


しかし一門衆の起請文には、れっきとした一門衆の一員として名前を記載しているのでございます。


ところが我が一門衆の総大将が、恐怖政治を敷き大将自身も食べ過ぎで馬に乗る事も出来ず腰に乗って指揮を采配していたのでございます。



また敵将は、九州随一の猛将島津義弘でございます。



我が一門衆の軍勢は、五万騎いました。


一方島津義弘有馬晴信の連合軍は一万騎でございます。



本来的ならば我が一門衆の勝利で終わるはずでございました。


ところが我が一門衆の軍勢の中から離反者が続出してしまいました。



しかし合戦上手の鍋島弾正忠が、我が一門衆の軍勢を引き連れて勇猛果敢に島津義弘の軍勢を後退させたのでございます。



この鍋島弾正忠の活躍を聴き入れた豊臣秀吉は我が先祖を一様は肥前国三五万石の国主に据えました。



ところが鍋島弾正忠を、執政官に指名しました



そして徳川家康江戸幕府を開設すると、我が一門衆は鍋島弾正忠の家臣筋に降格させられたのでございます。



また我が先祖は、鍋島藩の槍磨き上げの足軽大将に任命されました。


しかし石高は、五石であり食べる事にも欠く状態でございました。



我が先祖も、鍋島弾正忠家に対して遺恨ありと云う事で鍋島家に対して合戦を催す必要性がありました。