百石取りの佐賀藩士

我が先祖は、本来的には肥前国の地頭職を鎌倉幕府から拝命していた。

しかし戦国時代に勢力拡大のチャンスが訪れたために、図に乗り器以上の欲を出してしまった

ところが上には上がいる。薩摩の国主島津家と対立して合戦に至ってしまった。

島津家は、鎌倉幕府から薩摩国大隅国のニカ国の守護職を拝命している名門である。


あの九州の名門である豊後国豊前国のニカ国の守護職を拝命していた大友家は、島津家と衝突事故を起こした。

しかし結果は、島津家の圧勝に終わった。

大友家は、天下統一に野心的である大阪の関白豊臣秀吉に援助を依頼した。


豊臣秀吉は、九州地方も自分自身の守備範囲にしたいと思っていたので大友家の要請を受け入れた。


そして20万の軍勢を繰り出して島津家を包囲した。


鬼島津家も、20万騎馬の軍勢には手も足も出なかった。


島津家当主は、頭を剃り豊臣秀吉に恭順を示した。

また我が先祖は、大将が不在だったために鍋島弾正忠を代理人として豊臣秀吉の元に馳せ参じた。


豊臣秀吉は、鍋島弾正忠を大いに気に入ってしまった。

そこで肥前国三十五万石の大名として指名した


我が先祖は、元々家臣筋である鍋島弾正忠の下で働く事になった。


そして我が一門衆は三十八家存在した。


その中で領地が少ない我が先祖は、鍋島弾正忠の家臣筋では百石と云う破壊の少なさで雇われる事になった。


また仕事は、毎回毎回槍の刃を整える事であった。


我が先祖は、槍使い手であり島津家との合戦でも陣ノ内と云う地名で敵将の首を打ち破った名将であった。