源行家

源行家と云う名前は、余り聞き慣れい人物であります。

しかし源平合戦を引き起こした原因を作りだした重要事項人物であります。

この源行家は、源氏の氏の長者である源義朝の末っ子の弟である。

源義朝の息子は、鎌倉幕府を創設した源頼朝公です。

詰まりは源行家は、源頼朝公の叔父に当たる武士である。

平治の乱保元の乱が終わってみると、源氏系統は総崩れであり源頼朝伊豆国に流し者となり流人生活を余儀なくされる羽目になった。

源行家の父親の源為義は、子供を沢山産んだ。

日本国は、66カ国ある。この66カ国に一人ずつ自分自身の息子を国司に任命してみせると云って子供を数多もうけた。

しかし武家の名門とは云え、生え抜きの貴族たちに刃向かうわけにはならなかった。

そして後白河天皇崇徳上皇の兄弟喧嘩に巻き込まれて敢え無く斬首刑にされた。

そして孫に当たる源頼朝公は、伊豆国で流人生活である。

またその他の源氏は、斬られたり各地に逃げ延びたりしていた。

そして源行家は、熊野本宮大社の婿養子になっていたために平家の探索者リストから除外されていた。

平清盛も、熊野本宮大社を敵対すると平家方の損害が多いと考えて源行家を見逃していた。

ところが熊野本宮大社の庇護の元で成長した源行家は、何を考えたのか繁盛する平家を滅ぼしたいものだと考えた。

そこで諸国に散り散りになっていた源氏系統の屋敷を一軒一軒回って謀反を勧めた。

そして諸国の源氏を巻き物に書いて、此れほどの源氏系統が謀反に加担していると説いて回った。

当然の事ではあるが、伊豆国の流人源頼朝公の所にも出かけた。

しかし源頼朝公は、叔父源行家を粗略に扱った。

そこで方向転換して、甥に当たる木曽の患者源義仲の元に出かけた。

木曽の源義仲は、叔父源行家を暖かく迎える事になった。

その後源義仲は、昇り龍のような平家一門の人々を宮から追い払う事に成功した。

源行家は、常に甥源義仲の陣内に居て行動を共にしていた。