公家集団

公卿集団と云っても、摂政関白家と二流や三流又は下級貴族に分けられます。

摂政関白家は、藤原鎌足と息子藤原不比等の子孫たちです

しかし藤原不比等の中でも藤原北家の一族が優位な地位を独占した。

残りの藤原式家や京家や南家の藤原一族は二流!三流の藤原家として貴族社会で暮らしのでございます。

この藤原三家の中でも、南家の人々は貴族の仲間入りをする事も出来ず朝廷に奉祀する侍として辛うじて息をしていたのでございます。

我が先祖も系図上では、藤原南家の出身でございます。

しかし家系図ほど宛てにならない代物はございません。

戦国時代の武将たちは、皆が素性が怪しい先祖ばかりでございます。

戦国武将として軍事的や経済的に豊かになった。

ところが朝廷から官職に指名されるためには、氏素性が源氏か平氏藤原氏橘氏に繋がる必要性がございます。


しかし豊臣秀吉を筆頭各に何処の馬の骨の人物であるか判らない武将ばかりでございます。

そこで当時京都で流行ていた偽系図士に依頼者が殺到したのでございます。

豊臣秀吉には、陰陽師や祈祷師や偽系図作成担当の武士を雇用していました。

だから豊臣秀吉は、日本国で最高級の偽系図を制作して朝廷に提出したのでございます


そして豊臣秀吉は、最初は室町将軍家の系図を五十万石で購入する予定でした。


しかし最後の室町将軍家足利義昭は、五十万石は欲しいが百姓出身の豊臣秀吉を養子にする事は先祖に顔向け出来無いと断った。


次に豊臣秀吉が目を付けたのが、公卿集団の最高級摂政関白家でした。


公卿集団は、身分が元々尊いので、系図の売り買いには慣れていた。


豊臣秀吉は、早速藤原摂政関白家の養子になり藤原家系図を手に入れる事に成功した。


豊臣秀吉は、早速に朝廷に対して系図を提出して関白職に任命された。


でも豊臣秀吉は、武将であり出来る事ならば源氏系統の系図を手に入れて征夷大将軍に任命して武家の棟梁に任命したかった。


豊臣秀吉武家の棟梁の指名に失敗した。

ところが徳川家康は、まんまと武家の棟梁である征夷大将軍に任命された!


この成功体験には、徳川家康の家臣筋に源氏系統である名門吉良上野介家の人々が存在していたからです。


吉良上野介家は、足利将軍家と同等の血筋の家柄である。

あの足利尊氏が云った。


もし我が家に跡継ぎがいない時には、吉良上野介家から将軍家を任命するようにと命じた。



吉良上野介家の人々は、御大将徳川家康の指示に基づき源氏系統の偽系図を作成した。


源氏系統の新田入道の得川家の家系が絶えていたのでございます。


この得川家の家系図を、見事に徳川家康家系図にすり替えたのでございます。


早速に偽系図を朝廷に提出して、徳川家康はまんまと武家の棟梁各征夷大将軍の官職に指名されたのでございます。


とにかく幕府を開くには、武家の棟梁征夷大将軍に指名される必要性があったのです。


朝廷の唯一の権威が、時の権力者であっても官職に指名されるためには朝廷の権威が必要だったのでございます!