龍造寺家は、鎌倉幕府を開いた源頼朝公から肥前国は佐賀荘龍造寺村の地頭職に任命される。
武藤少弐氏は、朝廷の役人でもある太宰府少弐と云う官職にも任命されていた。
龍造寺家も、元々は藤原家であり守護職の武藤少弐氏も同じ流れを汲む藤原南家の一門衆であった。
同じ藤原南家の一門衆として龍造寺家の人々は、上司に当たる少弐氏に忠実に奉公していた。
しかし肥前国には、地頭職として何人もの武士団が群雄割拠していた。
その中でも有力な地頭職として有馬家や鍋島家や千葉家などが存在した。
有馬家は、海賊集団の棟梁として瀬戸内海を縄張りにして強奪行為を繰り返した。
ところが昼間は、朝廷に奉公する伊予国の国司として重職に就いていた。
しかし素性が朝廷に発覚して伊予国を離れて肥前国に逃げ込んだ。
また鍋島家は、近江国佐々木家の一門衆である。
佐々木家は、源頼朝公の側近中の側近であり数多の領地を日本全国各地に獲得した。
そして鍋島家は、佐々木家が所有する肥前国鍋島村に地頭職として赴任した。
龍造寺家も鍋島家も有馬家も、鎌倉時代や室町時代も地頭職を全うしていた。
ところが戦国時代に入ると龍造寺家が成長して、肥前国だけではなく九州5カ国を所有する有力者として君臨した。
しかし江戸時代に入ると、徳川家康の鍋島贔屓によりて肥前国は龍造寺家から鍋島家に乗っ取られてしまった。
龍造寺家一門衆は三八家の一族がいた。
しかし肥前国は、鍋島家の領地となり龍造寺家一門衆は九州各地に散らばり農民になったり浪人生になったり底辺の生活苦に陥っていた。
そこで龍造寺家一門衆は、江戸幕府に対して龍造寺家の肥前国での地位保全の裁判をした。
しかし江戸幕府将軍家徳川家光は、各地の大名家の争い事を禁止🚫していた。
徳川家光は、徳川家譜代大名や親藩大名に対しても取り潰しの対応をしていた。
龍造寺家は、外様大名家であり鍋島家は安定している中で龍造寺家の訴えを認める事もなかった。
龍造寺家の人々は悲観的になった。
そして何と龍造寺家で一番血筋が良い者が、江戸城の門前で毒を飲んて死んてしまった。
其れから一月半後、佐賀鍋島藩主が寝ていると夜な夜な真黒い化け猫🐱が現れ藩主を悩ませた
この情報は江戸にも拡がり、歌舞伎座では毎晩佐賀の化け猫🐱騒動として演じられた。
しかし化け猫🐱騒動を演じる歌舞伎役者は、不治の病に陥り頓死する者が続出した。
その後は佐賀の化け物騒動として演じる歌舞伎役者は皆無となった。