その武将の名は、龍造寺氏である。
この龍造寺氏は、鎌倉幕府から肥前国の地頭職を拝命するまでは藤原氏であった。
元々の素性は、関東地方の有力者藤原秀郷流の一族である。
その中で朝廷に奉祀するような一族がいた。
そして朝廷では左衛門府に配属された。
そこで左衛門府に奉祀する藤原氏と云う事で佐藤氏を名乗るようになる。
その中で佐藤義清が、上皇陛下に見い出されて院の御所の警備隊長に指名された。
その人物が後の西行法師である。
龍造寺氏は、西行法師の甥であり源平合戦では源氏方の武士として参戦していた。
源平合戦では、源氏方の圧勝に終わった。
龍造寺氏も、源平合戦の恩賞として肥前国の地頭職に指名された。
龍造寺一門衆は、家族総出で京都から肥前国に向かった。
そして肥前国の領地に入ると、大いな寺があった。
地元の人々に聴くと、天台宗の寺院だと云う。
また寺の名前は、龍造寺であると聴いた。
その時に寺から太陽光が、西から昇リ初めた。
龍造寺一門衆は、旅疲れも忘れる程の太陽光の光線を浴びた。
そして一門衆の一人が云った。我々一門衆は、今後は藤原氏から龍造寺氏に変更するぞ。
それから家紋も藤原紋から日足紋に変更すると宣言した。
それ以後は龍造寺氏であり、家紋も日足紋である。
日足紋は、太陽光線を型取った縁起ものである。