昔の官職の呼び名は格好が良いぞ

現在の知事の呼び名は、肥前守とか常陸介とか上総介とか日向守とか何とも格好が良いぞ!

日本国は66カ国存在した。

この66カ国には、国司又は受領が存在した。

国司と受領は、同じ官職であり呼び方が違うだけである。

また国司&受領の下には、介と掾があった。

ところが常陸国上総国には、守が存在しなかった。

常陸国上総国では、介が一番偉い官職である。

また常陸国上総国に赴任する人は、桓武天皇の子孫である平氏の一門衆が就任した。

皇族も人数が増加すると、皇族を離れて臣下に下リ平や源の姓を与えた。

平や源の姓を与えてから、地方の役人として派遣した。

常陸国上総国は、皇族を離れて臣下になった人の国だった。

また九州には太宰府と云う役所があった。

太宰府の役所の長は、太宰大弐と云う人がいる。

この太宰大弐は、れっきとした生え抜きの貴族の子弟が就任した。

当然の事ではあるが、太宰大弐は京都に居る。

そして地方にある太宰府には、太宰少弐と云う官職の人がいる

太宰少弐が、地方長官であった

この太宰少弐を代々襲名したのが、武藤と云う人である。


この武藤氏は、朝廷から任命された太宰少弐職であり鎌倉幕府からも守護職にも任命された。


詰まりは国家公務員でもあり鎌倉幕府の職員でもある。


その他右衛門府とか左衛門府とか検非違使庁とか近衛府の大将とか、何とも日本的な官職の呼び名である。


また江戸幕府にも、江戸幕府直属の役人でありながらも、尾張藩紀州藩水戸藩などの付け家老職と云う人がいた。


有名な付け家老職は、尾張藩犬山城主でもある成瀬隼人正と云う人がいる。

徳川家康は、尾張藩紀州藩水戸藩に幼い藩主を置いた。

しかし徳川家康の息子とは云え幼い藩主であり優秀な家臣筋の人物を選別して付け家老職にした。

しかし江戸幕府に残れば、後々には老中首座にも就任出来る人物である。

その人物が、地方の付け家老職には就任したくはなかった。

そこで徳川将軍直属の家臣の身分を与えたままで、各藩の付け家老職の身分も与えた。


また十万石クラスの大名の身分も与えて、殿様気分を味合わせた。

それでも付け家老職のくじ引きを引いた人物の子孫たちは、親や祖父を忌々しく思っていた。

我が先祖も、藤原秀郷であり源頼朝から肥前国に地頭職に任命されて肥前国に赴任した。

此れは系図上の事であり、真偽のほどは定かではないぞ?