現在も流行病で、日本国も兵乱の世の中に突入しています。
古の日本国にも何度も、現代のような兵乱の時代が存在しました。
最初は源平合戦の時代であります!
世の中を支配していた公卿集団の時代が終了して、殺傷を生業にしている武力行使集団が台頭してきた⬆
それも宮近辺の畿内地域の武士団ではなく、関東地区や九州地区など野蛮人と考えられていた地域の武士団が台頭した。
この野蛮な二大勢力が源氏と平氏である。
貴族たちから番犬のような取扱を受けていた武士団が、何と貴族の上に立って政治を行うようになった。
次の兵乱の時代が足利尊氏を総大将に、鎌倉幕府の実力者北条家を打倒する乱である。
しかし足利尊氏は、鎌倉幕府の筆頭御家人ではあったが他にも数多の有力大名がいた。
一様は鎌倉幕府の打倒に成功したが、足利尊氏を総大将に仰ぎ室町幕府が成立した。
しかし足利尊氏の力は限定的であり、他の有力大名の連合政権的要素が強かった。
三管領職には、細川家と斯波家と一色家と畠山家の四家から選抜された。
また四職にも、山名家などの有力大名が選抜された。
室町幕府は、足利家が一様は大将ではあるが他の有力大名も権力を保持していた。
だから大名同士の権力争いが絶えず起こり、室町幕府は安定性がなかった。
室町幕府の将軍職も、二人が家臣筋の赤松家と三好家の一族に暗殺されている!
次が戦国時代である!
不安定な室町幕府の時に、西と東に分かれて守護大名たちが京都で合戦を繰り広げた。
京都の人は、先の対戦と云えば応仁の乱と云うほど凄ましい兵乱だった。
京都の街中で12年間も合戦を繰り広げたからである。
この全国各地の守護大名たちは家臣筋の守護代に国の統治は任せて自らは軍勢を引き連れてダラダラと合戦を行った。
政治を預かっていた守護代は、家臣筋ではあったが12年間統治を行っていると自分自身が大将気分になってしまった。
本来的な大将の守護職が、自分自身の領地に帰還しても守護代は国入りを認めなかった。
俗に云われる下剋上の世の中である。
戦国時代には、実力主義であり毒殺あり騙し討ちありの兵乱の世の中である。
ヨーロッパから来ていた宣教師たちの本来的な目的は、日本国を占領するための下見だった。
ところが日本国では、上から下まで合戦合戦でありヨーロッパ人が攻め込んでも勝てる見込みがなかった。
宣教師たちは、本国に対して密書を何通も送り付けていた。
内容は、日本国には世界に出回っている鉄砲の4分の3の量がある事。
また武士団だけではなく、農民なども軍事行動をしている事。
詰まりはヨーロッパ人が攻め込んでも勝てる見込みがない旨の手紙を送り付けていた。
武士団は、世界中で通用する軍事集団であると評価されていたのだ。
八幡太郎恐ろしやである!