モンゴル帝国が、日本国に交易を求めて来た。
時の執権職は、若干18歳で就任していた北条時宗と云う若き指導者である。
北条時宗は、幼い頃から執権職としての教育を受けていた。
鎌倉幕府としては、財政破綻を避けるためにも外国との貿易を模索していた。
鎌倉時代中期には、九州筑前国博多が外国人との貿易で街中は賑わっていた。
そんな博多に肥前国の武士団松浦党も、館を建て外国人商人と商いを展開していた。
松浦党は、基本的には海の武士団であり自由奔放に船を操り商人たちからの水先案内としての需要も多かった。
また自らも外国人との商売もして、水先案内人としての収入と商売人としての収入があった。
鎌倉幕府執権職北条家では、松浦党の一門衆から北条時宗の教育係を任命した。
特に海上交通や海賊集団の情勢など多岐に渡る教育を展開した
松浦党の裏側の顔は海賊集団である。
海賊集団である松浦党にしてみれば、海賊に関する講義などは得意中の得意分野である。
松浦党の先祖は、元々は現在の東北地方に威勢を張っていた阿部と云う一族である。
余りにも阿部一族の威勢が強くなり過ぎたために、朝廷では坂上田村麻呂と云う勇士を総大将として派遣した。
坂上田村麻呂は豪胆でありながらも、経略に優れていたので阿部一族は合戦に敗北してしまった。
朝廷では阿部一族の扱いに苦慮した。
そこで京都から遠く離れた肥前国の松浦と云う島に流して済ませた。
流し者となった阿部一族は、元々東北地方を支配していたほどの一族である。
たちまちに肥前国松浦近隣の武士団を支配して、自らは水軍の頭として威勢を張った。
ちなみに前内閣総理大臣阿部晋三氏も、阿部一族の末裔と云う噂である。
噂であると云うのも、家系図があったとしても偽系図が横行していて本物保証の系図が少ない
特に戦国時代に突入すると何処の馬の骨かわからない武士が朝廷から官職を拝命するために偽系図が横行した。
官職は朝廷の唯一の権限である
しかし官職を拝命するためには源平藤橘などの氏姓に由来する必要性があった。
ところが戦国武将のほとんどが源平藤橘などの家系に繋がる家柄ではなかった。
そこで戦国時代には、偽系図作成を本業にする系図作成者と云う商売が繁盛した。
あの徳川家康も、一様は三河国の大名ではあるが家系的に源平藤橘に繋がらない。
そこで家臣筋である吉良上野介に頼み込んでは、無理やり新田義貞系統の家に繋げた。
新田義貞系統の得川氏は、途中で跡継ぎが無くて系図が断絶していた。
吉良上野介家は、源氏の名門足利家の一族である。
因みに徳川家康の先祖は、三河国に領地を持っていた京都加茂神社の領地だった。
徳川家康の先祖は、加茂神社の領地を管理する管理人の家柄の人である。