鎌倉御家人の筆頭御家人安達泰盛の事

鎌倉幕府の実力者執権職北条家は、従事者でありながら四位兼相模守以上の官職は所望しなかったのでございます。


この鎌倉幕府の実力者執権職北条家の直属の家臣筋が、身内人と云う武士たちでございます。



一方鎌倉幕府を構成する鎌倉幕府御家人は、外様大名であり北条家とは一線を保っていたのでございます。


この外様大名で鎌倉御家人の筆頭各が、安達泰盛と云う人物でございます。


安達泰盛の先祖は、あの源氏の氏長者朝臣頼朝が流人生活を送った時に自らも流人生活を共にした忠義な武士でございます



源頼朝は、鎌倉幕府を創設するに際して安達泰盛の先祖を御家人の中の御家人として処遇したのでございます。



ところが源氏は、源頼朝の孫の時に北条家に幕府を奪取されてしまったのでございます。



北条家も、他の御家人たちと立場上は同じ御家人でございます



そこで他の有力候補者の三浦介や畠山や比企などの有力候補者を滅ぼしたのでございます。



しかし実力者北条家でも、御家人の中の御家人安達泰盛の先祖を滅ぼす事は出来なかったのでございます。



モンゴル軍が、日本国に攻め込んだ時の執権職北条時宗の妻は何と安達泰盛の妹さんでございます。



しかし北条時宗は、モンゴル軍との合戦の心労から若干33歳で亡くなったのでございます。



北条時宗は、若干18歳で執権職に就任して以来33歳までモンゴル軍に悩まされたのでございます。



我が先祖も、九州地区肥前国の地頭職を拝命していたので博多湾に参集したのでございます。



そして肥前国守護職少弐家の指揮官の下でモンゴル軍と合戦して手柄を挙げたのでございます。