播磨国の守護職赤松円心の事

鎌倉幕府は、八代執権職北条時宗は若干18歳の若武者が日本全国の武士団に号令を掛けました。


何故に若干18歳の若武者が日本全国の武士団に号令を掛けたのか?



理由はモンゴル帝国の王様が、日本国と交易を行いたい旨の親書が届きました。



ところがモンゴル帝国から届けられた親書の最後に、交易する事を断るならば日本国を攻め滅ぼす事が書いてありました。



鎌倉幕府御家人たちの意見は、2つに別れていました。



東武者と云う者は、他人から合戦を仕掛けられて異国人だから背を向けて真っ先に逃げる事は出来ないと云う意見がある。



一方異国人と合戦に及んでも、領地が手に入るわけでは無く単に異国人を追い返したに過ぎない。



そこでのらりくらり作戦により、異国人と適当に交易をすれば良いではございませんかと云う肯定的な意見が出た。



執権職北条時宗は、帝王学を幼い頃より学んでいました。



帝王学では、家臣筋ばかりでは無く日本国を守り抜く事が御大将の役割であると云う事を頭に叩き込まれていたのでございます。



そこで執権職北条時宗の心中には、敵人に敗北宣言をすると云う選択肢はありませんでした。



執権職北条時宗は、全国各地から武士団を掻き集めて九州は筑前国博多湾に集結させたのでございます。



九州筑前国博多の総大将には、九州地区の名門中の名門少弐氏を指名しました。



また執権職北条時宗実弟を副大将に指名して九州の博多湾に派遣したのでございます。



そして坂東武者の中でも、武勇に優れた喧嘩上手を選抜して九州地区に派遣したのでございます。



当然の事ではございます。


足利家執事職高家の人々も、武闘派として有名だったので選抜隊に抜擢されました。



そして2回の合戦で、モンゴル帝国の軍勢を打ち破ったのでございます。



しかし合戦には勝利したものの、功績があった武将への恩賞は皆無でした。



この時の戦費が、各地の鎌倉御家人に重くのしかかり最後の執権職北条高時に対する謀反が進行したのでございます。



その中でも播磨国の赤松家は、朝廷やお公卿集団に加勢して鎌倉幕府六波羅探題の武士を敗走させたのでございます。



ところが朝廷での恩賞配分では、何と赤松家は播磨国守護職を剥ぎ取られて播磨国の一地域の地頭職を拝命しただけであリました。




赤松円心は憤りました。


命を惜しんで朝廷の御ために働いたのに、守護職から地頭職に各下げされるとは公卿は武家の気持ちなど理解する事が出来ないのだと云った



その愚痴の相手は、何と武門の棟梁各足利尊氏の屋敷であリました。



そして赤松円心は、足利尊氏に云ったのでございます。



公卿などには今後一切、協力する気持ちはありません。



今後命を惜しんで働く時には、武家の気持ちが判る足利尊氏殿のために働く所存だと云いながら播磨国に隠遁したのでございます。



足利尊氏は云いました。



今日赤松殿が、我が館に来てくれた事は忘れはしませんぞ。



私自身が合戦をする時には、赤松殿を頼りにしている旨を伝えたのでございます。



赤松円心は涙を流して号泣した。



その後足利尊氏は、京都に室町幕府を創設したのでございます。



赤松円心は、一族郎党を引き連れて終始一貫足利尊氏方の武将として命を惜しんで働いたのでございます。



その結果赤松家は、足利幕府の中では足利一門衆以外で鎌倉幕府四職に指名されたのでございます。