私の遠い先祖は、藤原鎌足に繋がる。
しかしあくまでも系図上での事である。
それぞれの息子たちは、藤原北家🏠式家🏠宮家🏠南家として独立した。
この四人の中で一番に繁盛した家が、藤原北家である。
後々には摂政関白家となり、天皇家を補佐する最高の家柄の人たちを輩出した。
そして我が家の先祖は、藤原南家である。
藤原南家の人たちは、文官の官職よりも武を用いて奉職する武官の官職に数多出仕した。
ある藤原南家の人たちは、朝廷の武官の官職に就任する。
またある藤原南家の人たちは日本全国の国司として、各地の県知事に就任する。
思い思いの官職に就任したが位は高くはなく、地方の役人と云う身分の人として過ごしていた
そんな藤原南家の人々の中で飛び抜けて出世した者がいた。
あの関東地方で民人たちのために、立ち上がった平将門の乱を平定した藤原秀郷と云う人物である。
しかし地方の役人と云う立場であり、宮での地盤はなかった。
そんな時に平将門の乱を平定した者には、朝廷より三位の地位に拝命するとの御触れがあった
藤原秀郷は、早速に応募した
藤原秀郷流の人々は、関東各地の有力者と姻戚関係を結んでいた。
だから藤原秀郷が、関東各地の武士団に号令をすれば秀郷の陣に馳せ参じる武士は数多いた。
藤原秀郷は、宮での基盤はなかったが藤原貴族出身者であり関東武者にしてみれば慶應ボーイの存在だった。
藤原秀郷の陣に馳せ参じた武士団は、三万騎に達していた。
幾ら武勇に優れた平将門でも多勢に無勢である。
合戦は藤原秀郷軍の勝利で終わった。
藤原秀郷は、約束通り朝廷より三位の位に任命された。
この藤原秀郷の子孫に佐藤義清が現れる。
佐藤義清は、出家して西行法師となり歌詠みの名人として貴族たちと交流した。