江戸時代の終わり頃の出来事である。
薩摩藩の島津家の大名行列が、現在の横浜市生麦村を通る過ぎようとしていた。
すると向こう側から外国人と思われる数人が、馬🐎に乗ったままで大名行列をやり過ごそうとしていた。
薩摩藩士が外国人に近ずいて無礼であるぞと言った。
しかし外国人が薩摩弁を聴き取れるわけもなく、下馬する事もなく通り過ぎた。
すると薩摩藩士は、何も云わずに外国人を斬り殺してしまった
斬り殺された外国人は、イギリス人の大使員だった。
江戸幕府としては、イギリス人の大使館員を斬り殺した事は外交問題になるとして薩摩藩士をイギリス大使館に引き渡すようにと薩摩藩に命令した。
しかし薩摩藩としては、大名として当然の事をしたと主張した
イギリス大使館は、江戸幕府の対応に苛立ちを抱き自らイギリス海軍を率いて薩摩藩を直接に攻撃した。
時のイギリス海軍は、世界中の海を制覇する無敵艦隊と云う異名があった。
この無敵艦隊イギリス海軍から売られた喧嘩を、一地方の大名に過ぎない薩摩藩は受けて立つ事に決した。
イギリス海軍は驚いた。
普通ならばイギリス海軍が攻め込んで来ると云うだけで、闘わずして負けを認める。
其れも国単位で負けを認めると考えていた。
ところが薩摩藩は、日本国に存在している一つの藩に過ぎない
その藩が、イギリス海軍の脅しに屈する事もなく堂々と合戦を受け入れた。
ところが薩摩藩は、武器も火縄銃と小さな大砲と薩摩示現流と云う奇妙な剣術だけでイギリス海軍に応戦していた。
薩摩藩士は、一人がイギリス軍に突入すると絶対に一人を斬り殺さなければ倒れ込む事をしない。
息は途絶えているにも関わらず斬り殺すまでは死ぬ事はない。
この薩摩藩士の気力充満に対して、イギリス海軍の大将は側近に云った。
この薩摩藩と云うのは、日本国の一つの藩に過ぎないと聞く。
このような藩が、日本国には三百藩あると聞いた。
我がイギリス海軍の力ならば、最終的には薩摩藩には勝つ事は出来る。
しかし我が無敵艦隊イギリス海軍にも、大損害間違いないぞと云った。
薩摩藩でも、相手方からの和議の申し入れならば仕方がないと云って和議を受け入れた。