あの徳川家康に影武者がいた

徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍が、あの美濃国関ヶ原で日本国を二分する大合戦が行われた。

徳川家康率いる軍勢のほとんどは、豊臣秀吉古参の軍勢であった。

その筆頭各は福島正則であり加藤清正であり黒田長政だった。

この3人は武闘派であり、豊臣秀吉からも信頼性が高い武将である。

一方石田三成は、合戦に弱く幾度の合戦で総大将に指名されたが全部敗軍の大将だった。


ところが金勘定や軍備品の調達などの合戦以外の分野では、石田三成に適う武将はいなかった。

福島正則加藤清正黒田長政たちは、何時も合戦の最前列にいた。

ところが石田三成は、大阪城にいて豊臣秀吉の元で茶会などを催しているではないか。

これを聞いた福島正則加藤清正黒田長政たちは、感情の矛先を合戦している相手方に向けた。

相手方の武将たちは、理由も解らず猛烈に攻撃的な3人の武将たちに散々に討死した。

そして関ヶ原の合戦である。徳川家康の本体は、家康の息子徳川秀忠率いる3万8千が、中山道を通って関ヶ原の舞台に向かっていた。

途中には戦上手の真田家の居城上田城があった。

徳川秀忠本隊が上田城に近ずくと、本田正信と云う家老が言った。

あの真田家に合戦を仕掛けましょうと提案した。

徳川秀忠も、真田を打ち破り父親の徳川家康の土産にしようと提案を受け入れた。

しかし徳川秀忠本隊は、真田家に手こずり関ヶ原合戦に間に合う事が出来なかった。

その結果は徳川家康率いていた本隊は、石田三成家臣島左近に討ち取られる始末である。

徳川家康本陣では、徳川家康の影武者を家康になりすまし以来影武者が徳川家康の身代わりとなった。

徳川家康は、江戸幕府を開いた。

しかし徳川家康は影武者であり、諸大名が居ない時には影武者が息子徳川秀忠に向かって礼儀正しく接していた。

ところが徳川家康の影武者は大の長生きであり、徳川秀忠が死亡する直前まで生きていた。

徳川秀忠は、何と運勢が悪いのだろと自分自身の運命を悔やんだ。