令和4年1月19日の事【3】

朝入酸素運動は完璧でございます。

県に鎮座される護国神社に初詣に行って来たのでございます。

我が父上も、海軍幼年学校を卒業後佐世保軍港から出陣する時に終戦になったのでございます

その後には、佐賀県警察官に拝命するも我が先祖の家業である農業を継ぐ為に巡査部長を退任したのでございます。

朝筋肉体操&トレーニングは完璧でございます。

3キログラムのダンベルの上下運動を2百回実行したのでございます。

朝の我が先祖の宗派浄土真宗本願寺派の読経の勤めでございます。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・現世利益和讃。

親鸞先生バンザイ🙌でございます。

法然上人バンザイ🙌でございます。

我が先祖の再興&復興は間違い無しでございます。

我が事業の成長間違い無しでございます。

源頼朝に付き従った坂東武者たちの大半は、地主階級の人たちでございます。

その中では三浦介&千葉介&上総介&秩父氏などは、先祖が国府の介の官職を拝命していたので肩書として使用したのでございます。

このような家筋の人は、朝廷や宮の事柄に対しても少しは明るかったのでございます。

しかし他の関東地区の武者たちは、一生に1度程度京都に行った事がある程度の人たちでございます。

源頼朝は、武家貴族の平氏の打倒に成功したものの幕府を動かす人材が不足気味でございました。

其れは戦国時代にも、同様な悩み事でございます。

あの織田上総介信長も、織田家自体は守護職斯波家の守護代でございました。

しかし織田上総介信長の家筋は守護代織田家の傍系の傍系の傍系の家筋の人でございます。

そこで織田上総介信長の家臣筋の武士たちは、ならず者【街のあんちゃん連中】のような喧嘩が強い家筋の人々でございます

いざ織田上総介信長が、京都に上洛すると朝廷や寺社勢力圏との折衝は明智日向守光秀1人に任せられたのでございます。

そして足利家一門衆の細川家も朝廷や寺社勢力圏との折衝に重宝されたのでございます。

細川家と云えば、室町幕府管領家を拝命する家筋でございます。

室町幕府の政治を動かす機関は管領家四職と云う機関でございます。

四職には、赤松氏&一色氏&山名氏&あと一家でございます。

因みに我が先祖は、大宰府の役人でございました。

そして我が先祖の上役は、5ヵ国の守護職を拝命すると同時に朝廷からも大宰府の少弐職を拝命していたのでございます。

令和4年1月19日の事【2】

鎌倉幕府御家人中の御家人足利家の棟梁が、息子で足利家嫡男足利尊氏に云ったのでございます。

我が先祖足利家は、同じ源氏系統の一門衆として源頼朝を支えて来た。

ところが源氏将軍は途絶えて、同じ御家人の中でも北条家だけが繁盛している。

そんな中で我が祖父は、北条得宗家に謀反の罪を擦り付けられて切腹した。

我に勇気があれば、悪政を敷く北条得宗家を成敗する事が武家の棟梁各の勤めと思い悩んだ。

しかし我が動けば、諸国に散らばる足利一門衆が全て動く。

その足利一門衆の数は、女子供を含めれば万の数である。

ところが我に勇気や智慧や才覚無く、ただ足利の家名を維持するだけであった。

しかし尊氏よ。自分自身が武家の棟梁各として、北条得宗家の悪政を糺す時だと考えれば迷わず軍勢を催すのだ。

私自身のような家名を維持するだけの武家の棟梁各では駄目だと云ったのでございます。

尊氏よ。覚悟を恐れる事をするな。

武家の棟梁各は、悪政を恐れる事無く糺してこそであると足利尊氏を諭したのでございます。

そして足利尊氏は、後醍醐天皇陛下が鎌倉幕府討伐の院宣を出された時に鎌倉幕府打倒を掲げたのでございます。

鎌倉幕府執権職北条相模守は、北条家執事職長崎氏に命令して楠正成の討伐軍を編成したのでございます。

その討伐軍の総大将には、足利治部太夫尊氏を指名したのでございます。

また討伐軍の軍勢は、大半が源氏系統の武者でございました。

足利治部太夫尊氏は、足利家の守護職を拝命していた三河國で演説を催したのでございます。

足利治部太夫尊氏は、討伐する相手先は楠正成殿では非ず。

討伐する相手先は、京都の鎌倉幕府出先機関六波羅探題であるぞと云ったのでございます

大半が源氏系統の武者でございます。

足利治部太夫尊氏の演説を聴いた軍勢は、涙💧を流して号泣したのでございます。

この経緯を聴いた鎌倉の北条一門衆は云ったのでございます。

今回の遠征軍のほとんどが源氏系統であるぞ。

そして鎌倉に居る我々は平氏筋であるぞと云ったのでございます。

北条家執事職長崎氏の判断事に誤りが存在した事に気付いたのでございます。

しかし時既に遅かったのでございます。

因みに我が先祖は、今回も足利治部太夫尊氏方の武士として参陣したのでございます。

令和4年1月19日の事【1】

平清盛が、武家貴族階級で初めて生え抜きの貴族を飛び超えて大政大臣正1位と云う最高の官職を極めたのでございます。

平清盛は、最初は院の御所に奉職する北面の武士に指名されたのでございます。

そしていきなり安芸の国の守に指名されたのでございます。

打続き宰相!衛門府督!検非違使別当職!大宰府大弐職!次に内大臣から左右の大臣を経る事無く大政大臣正1位に就任したのでございます。

普通は内大臣から右大臣を経て左大臣に就任するのでございます。

其れも右大臣には、二流貴族の家筋の人も就任する事が出来ます。

しかしながら左大臣や大政大臣に至っては、摂政関白家🏠の息子さんしか就任出来無い官職でございます。

この摂政関白家🏠の息子さんたちが就任する大政大臣に、武家出身者として平清盛が就任したのでございます。

この平清盛の出世には、京都の上や下の人々は皆が目を丸くしたのでございます。

平清盛が大政大臣正1位と云う最高の官職に就任出来たのは、祖父平正盛が助走路を付けていたのでございます。

平正盛は、伊勢國や伊賀國の国司を歴任して貯め込んだ金銭を生え抜きの貴族階級や皇室に献金したのでございます。

また瀬戸内海や九州地区の海賊たちを討伐したのでございます

しかしながら討伐した海賊集団を、朝廷には内緒で平氏の組織に組み入れたのでございます。

平正盛は、朝廷に対して国司として奉職しながら一方で海賊集団の頭として京都に送る税金を奪取していたのでございます。

この裏工作で獲得した金銭を貴族や朝廷に献金したのでございます。

朝廷では、平正盛の功績は誰よりも大きいと云って大国の守に任命したのでございます。

そして朝廷の中でも武家出身者として、頼りにされる存在感になったのでございます。

一方で武家貴族の源氏系統は、源頼義源義家親子が陸奥守&鎮圧府将軍職として東北地区の阿部一族を討伐する将軍として派遣されたのでございます。

ところが源頼義源義家親子は阿部一族を討伐する事が出来たとは云え12年間の歳月を費やしたのでございます。

武勇に優れた源氏系統でも、雪深い未開の地区東北では力を存分に発揮する事が出来なかったのでございます。

最終的には、東北地区出羽國の大豪族清原氏の応援📣を借りて阿部一族を滅ぼす事が出来たのでございます。

このような武家貴族としての失態を招いた後には、源氏系統の人々は低い官職しか指名される事しかなかったのでございます

そして武家貴族で一人勝ちの平氏は、平正盛の息子平忠盛になって36歳と云う老けた年齢に至って殿上人に指名されたのでございます。

生え抜きのお公卿さんならば、10代では殿上人に指名されるのでございます。

遅くても20代では殿上人に指名されます。

ところが武家貴族の平忠盛は、36歳と云う老けた年齢層で殿上人に就任したのでございます

この平忠盛が殿上人となっていたので、息子の平清盛の大出世街道が実現したのでございます

一方で源氏系統では、源義朝が右馬守職を拝命していたのでございます。

右馬守職は、朝廷に存在する馬屋の別当職でございます。

源氏系統の武家貴族は、朝廷内では其れ程度の武家でございました。

因みに我が先祖は、院に奉職する北面の武士の家筋でございます。

令和4年1月18日の事【2】

朝筋肉体操&トレーニングは80%は実践しました。

筋肉トレーニング&体操の内容は、3キログラムのダンベルの上下運動2百回実行する事でございます。

朝入酸素運動は80%は実践しました。

入酸素運動の内容は、10キロメートル千葉市内の散歩でございます。

朝我が先祖の宗派浄土真宗本願寺派の読経の実践でございます

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・現世利益和讃。

親鸞先生バンザイ🙌でございます。

親鸞先生の先生法然上人バンザイ🙌でございます。

我が先祖の家🏠の再興&復興間違い無しでございます。

因みに我が先祖の家🏠の再興&復興には、新妻が必須アイテムでございます。

我が事業の急上昇気流に乗る事間違い無しでございます。

源頼朝が、朝廷から征夷大将軍💟の官職に指名されたのでございます。

征夷大将軍💟の任務遂行としては、朝廷に対して謀反を企てる輩の討伐が主たる業務内容でございます。

その後に源頼朝は、我が日本国66ヵ國に対して守護職と地頭職を配置する事を要求したのでございます。

守護職は、各國の警察権や徴税権を主たる業務内容としていたのでございます。

また各國には、荘園ごとに地頭職を置いたのでございます。

地頭職は、上司筋の守護職を補佐する事や寺社や生え抜きの公卿の荘園の管理人を主たる業務内容としていたのでございます

しかしながら各國には、朝廷から指名された國の機関である国司【受領】と云うれっきとした貴族が数多存在するのでございます。

各國の国司には、貴族の中でも生え抜きの貴族階級では無く5位クラスの貴族が指名されるのでございます。

ところが壱岐國と対馬國の国司には、何故か5石クラスの貴族にも人気が無いのでございます。

そこで壱岐守と対馬守には、近衛府に勤務する侍各の役人が世襲したのでございます。

その人物は、宗氏と云うれっきとした桓武平氏の流れを組む人でございます。

源頼朝が設置した守護職国司が、各地で毎回いざこざを起こしていたのでございます。

しかし守護職大名には、鎌倉幕府御家人が就任していたのでございます。

一方で国司には、下級とは云えれっきとした貴族が就任していたのでございます。

守護職大名は、れっきとした武士でございます。

一方で国司には、武士が勤務しているとは云え軍勢とは程遠い数でございます。

守護職大名に指名された武士は大大名クラスの人ではございますが暴力集団の頭でございます

国司に奉職する侍程度で、合戦して敵う相手ではありません。

本来的に國の機関である国司の業務範囲は、縮小傾向になってしまったのでございます。

しかし鎌倉幕府の勢力圏は、関東地区や九州地区など畿内以外の限定地区でございます。

やはり寺社勢力や生え抜きの貴族の勢力圏は強大でございます

寺社勢力は、僧侶自ら武装化して鎌倉幕府御家人たちと領地問題で合戦していたのでございます。

また生え抜きの貴族は、自ら武士団を雇用形態を取り鎌倉幕府御家人に対して殴り込みを仕掛けていたのでございます。

因みに我が先祖は、九州地区佐賀荘園の地頭職でございます。

令和4年1月18日の事【1】

源頼朝と13人の仲間たちの主人公は、源氏の氏の長者源右大臣兼務武官の最高職近衛府の右大将源頼朝でございます。

源頼朝の父親は、平治の合戦で平清盛に打ち負かされて京都脱出に成功し家来筋で尾張國の知多半島の有力者長田と云う武士に風呂場にて騙し討ちになった人物でございます。

源義朝は、武勇に優れた武将でございます。

普段ならば、家臣筋の長田に不覚を取る武将ではございません

ところが安堵したのか風呂場でパンツを履く事が出来ず、本来的な武勇を発揮する事が出来なかったのでございます。

本来的には長田氏は、伝来源氏の有力家臣筋でございます。

しかしながら平清盛が、生え抜きの貴族を飛び越えて大政大臣まで昇進したのでございます。

そこで長田氏は、伝来の主君筋源頼朝を騙し討ちして首を土産物に平清盛から恩賞を頂く腹積りでございました。

早速に源義朝の首を持って平清盛に面会したのでございます。

平清盛は、長田と面会して云ったのでございます。

貴様は、先祖伝来の主君筋源義朝を騙し討ちして首を持って来たと聴いた。

源義朝の首を討ち取ったのは、褒めてやるぞ。

そこで恩賞には、壱岐國か対馬國の何方かの国司に就任する推薦状を書く。

貴様は、壱岐國が良いか対馬國が良いかと訪ねたのでございます。

長田氏は、平清盛の対応が不満でございます。

そこで恩賞としては、平清盛殿の敵将の首を持って来たのでございます。

せめて我が知多半島を管轄する尾張國の守を所望すると云ったのでございます。

平清盛は、長田に対して云いました。

貴様は、主君筋を騙し討ちと云う源氏系統の武士が得意分野とする戦法で源義朝の首を討ち取った。

我が西國の武士は、騙し討ちと云う戦法に対しても抵抗がある

ところが貴様は、先祖伝来の主君筋を騙し討ちにしたのだと云って非難したのでございます。

また平清盛は云ったのでございます。

貴様を尾張國の守にする推薦状を書くと、尾張國は大国であり京都にも近い國である。

貴様のような武士の倫理観が薄い輩は信用する事など出来無いぞ。

貴様は、次は平家を裏切り源氏に味方するはずであると云って長田を批判したのでございます

貴様のような輩には、貴族階級が就任したがら無い壱岐國の守か対馬國の守が似合っていると云ったのでございます。

長田は、平清盛の対応に対してカンカンに怒って知多半島に帰ったのでございます。

そして源頼朝が、鎌倉幕府を創設すると真っ先に父親源義朝を騙し討ちにした長田一族を皆殺しにしたのでございます。

長田一門衆は、真に運が無い一族でございます。

我が一門衆も、一家一門衆三八家が、鍋島弾正忠家に根こそぎ肥前國35万國を奪われてしまったのでございます。

しかし我が一門衆は、ひと様から非難される事は一切行っていないのでございます。

ただ一つ化け猫を飼い続けている位でございます。

今も私自身が、化け猫の子孫筋の化け猫を飼い続けているのでございます。

令和4年1月17日の事【3】

源頼朝が、平氏打倒の軍勢を催した時に朝廷や生え抜きの公卿たちに奉職する為に京都に在京していた武士が存在したのでございます。

関東地区の宇都宮氏&畠山氏&三浦介でございます。

京都では地方の有力者を懐柔する為に、3年に一度のペースで武官の官職を与えると云う名目で在京させたのでございます。

宇都宮&畠山&三浦介も、本来的には源頼朝方の武士団として平氏打倒の陣に参加したかったのでございます。

しかし父親たちを人質として京都に捕らえられている為に、仕方無く平氏方の武士として源頼朝討伐軍に参加したのでございます。

平清盛は、宇都宮&畠山&三浦介を呼び出して起請文を要求したのでございます。

そして畠山氏が、平清盛に云ったのでございます。

流人源頼朝と仲が良い北条氏辺りは、源頼朝の謀反に加担するかもしれません。

しかし関東地区の武士団のほとんどが、平清盛様から数多の恩恵を受けているのでございます

また関東地区の大小の武士団は坂東平氏の流れを汲む一門衆ばかりでございます。

と気持ちは坂東に有りながら、嘘を並べ立てたのでございます

平清盛の息子で内大臣兼務武官の最高職近衛府の右大将平宗盛は云ったのでございます。

この武士団は、我々と先祖は同じ平氏流であるぞ。

当主を人質にすれば、関東地区の息子たちも平氏方の武士として振る舞うに違い無いと云ったのでございます。

しかし平氏の総大将宗盛は、眼つきの悪さや隙の無い振る舞を怪しんでいたのでございます。

案の定三年間勤務時間を終了した宇都宮&畠山&三浦介は、反平氏方として源頼朝の陣に参陣したのでございます。

宇都宮&畠山&三浦介を、関東地区では大大大大名クラスの家筋でございます。

畠山家などは、武蔵國の集団武蔵七党に対して号令を出せる立場の大大大大名でございます。

宇都宮家も、一家一門衆の小山家や八田家などの有力者が揃って源頼朝に靡くのでございます

また三浦介家も、相模國の介の家柄の一門衆でございます。

この有力大名クラスが、源頼朝の陣に参陣した事で関東地区の武士団は皆々源氏に靡いたのでございます。

関東地区は、武士団だけでは無く草も木も源氏に靡いたのでございます。

平清盛は、死ぬ間際に一家一門衆を招集しては我が墓場の前に命を助けたにも関わらず謀反を起こした源頼朝の首だけを置いてくれと頼んだのでございます

平清盛は、武家出身者で初めて生え抜きの公卿を飛び越えて大政大臣従一位に就任した人物でございます。

しかし平治ノ合戦で、戦争に参加した源頼朝と幼い弟たちを助けた事が平家の命取りになったのでございます。

我が先祖も、有能な鍋島弾正忠家を家老職として据えた事が命取りとなってしまったのでございます。

悔しいです。

本来的には、佐賀藩の5百石取りの役職付の大臣でもおかしく無い家筋でございます。

しかし実際は、足軽大将で5石取りの藩士であり生活苦に悩んだ家筋でございます。

令和4年1月17日の事【2】

朝入酸素運動は実行済みでございます。

30分間の歩き散歩でございます。

筋肉トレーニング&体操実行済みでございます。

3キログラムのダンベル200回実行済みでございます。

朝我が先祖の宗派浄土真宗本願寺派の読経の実行済みでございます。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・現世利益和讃。

親鸞先生バンザイ🙌でございます。

また法然上人バンザイ🙌でございます。

我が先祖の再興&復興間違い無しでございます。

我が事業の急上昇気流カーブ間違い無しでございます。

あの戦国時代の安芸の国の地頭職毛利家の先祖は、貴族階級の大江氏でございます。

鎌倉幕府の構成員の源頼朝と13人の仲間たちの顔ぶれは、全て関東地区の暴力集団のボス階級でございます。

教養に乏しく朝廷の意向も理解出来ず、領地拡大の野心ばかりは旺盛な人々たちでございます

源頼朝は、軍事貴族階級でございます。

京都に屋敷を所有して、朝廷より官職を拝命しているのでございます。

朝廷の儀式も理解出来るし、貴族階級との付き合いもあるのでございます。

しかし平治ノ乱により、敗軍の将として伊豆國に流し者の憂き目に遭遇したのでございます。

ところが30歳を過ぎた頃に源頼朝の運が急上昇したのでございます。

平清盛の悪政が、生え抜きの貴族階級からの批判にさらされてしまったのでございます。

後白河天皇陛下から、平氏打倒の命令書を受け取ると北条時政の軍勢百騎馬で立ち上がったのでございます。

そして遂には平氏打倒を実現する事が出来たのでございます。

しかし征夷大将軍に指名されて鎌倉幕府を立ち上がげました。

ところが鎌倉幕府の構成員は、皆々暴力集団の親方衆ばかりでございます。

この構成員では、寺社勢力や貴族集団と対等に向き合い政治は出来無いと悟った源頼朝は、馴染みある貴族集団の面々をスカウトしたのでございます。

その源頼朝からスカウトされた貴族集団の中の1人が、大江氏でございます。

そして大江氏の一門衆の1人が安芸の国の地頭職として赴任したのでございます。

因みに安芸の国の守護職大名は甲斐国の名門武田家の1人が赴任したのでございます。

甲斐国の名門武田家は、最初から鎌倉の源頼朝に同じ源氏の系統として協力的でございます。

源頼朝は、甲斐国の武田家を高待遇で処遇したのでございます

大江氏の1人で安芸の国の地頭職としに赴任した鎌倉幕府御家人は、昔は貴族階級と云う事を忘れて武家として生き残る決意をしたのでございます。

そして大江氏から、地名毛利を名乗ったのでございます。

貴族階級の仕事は、勉強と公卿詮議と云うように会議するのが仕事でございます。

大江氏は、学問の家柄の貴族でございます。

兵法書にも精通し、学問を重視する家柄の人でございます。

そんな家筋の人であるから、毛利元就が出現して地頭職から10ヵ國の大大名に出世したのでございます。

しかし毛利元就の子孫たちは、元就の意向の通りには行かず関ヶ原の戦いでは石田三成方に味方した結果10ヵ國の大大名から2か國の普通クラスの大名に格下げの憂き目に遭遇したのでございます。