令和4年2月19日の出来事【1】

源頼朝と13人の仲間たちは面白いでしょうか?

源頼朝の先祖は、清和天皇陛下の御孫多田満仲と云う人物でございます。

源満仲は、摂津國の多田と云う地域に数多の領地を頂いていたのでございます。

そこで源満仲の事を多田と云うのでございます。

源満仲には、二人の優れた息子が居たのでございます。

源頼光と弟源頼信でございます。

源頼光は、父親源満仲から多田の領地を数多相続したのでございます。

その結果畿内地区には、源頼光流の系譜の家筋が数多存在するのでございます。

平氏全盛の時に、1人源氏系統の将軍として歯を食いしばり平氏政権に忠勤を尽くしていた源三位頼政などが源頼光流の源氏系統の人でございます。

一方で弟源頼信は、関東地区に進出していたのでございます。

其れも相模國の鎌倉市でございます。

そんな時に東北地区で、陸奥國の有力者阿部一族が朝廷の威光に逆らう態度を取り始めたのでございます。

東北地区には、出羽國と陸奥國が存在するのでございます。

陸奥國には、藤原系統の人が国司として赴任していたのでございます。

しかしながら藤原系統の国司は貴族階級の家筋でございます。

阿部一族の館に行っても、袋叩きになり追い出されてしまうのでございます。

そこで朝廷では、出来れば武士階級の家筋の人を国司に指名する事になったのでございます。

その陸奥國の国司に指名されたのが、源頼信流の源頼義源義家親子でございます。

源頼義は、京都では武勇に優れた人物としての評価が高かったのでございます。

また嫡男源義家は、幼い頃より大きくなると勇猛果敢で思慮深い武将になると期待されていたのでございます。

この人物が、超人的武将源八幡太郎義家でございます。

源頼義源義家親子は、陸奥守兼務鎮守府将軍職を拝命して陸奥國の阿部一族追討に出陣して行くのでございます。

途中に関東地区の武士団を糾合して陸奥國に入ったのでございます。

ところが武勇に優れた源頼義源義家親子でさえも、阿部一族を追討する事が出来たのは13年後の事でございます。

詰まりは阿部一族は、地の利を利用して13年間源義家に抵抗したのでございます。

しかしながら武家貴族源義家阿部一族を最終的には追討したのでございます。

ところが宮に凱旋すると朝廷からは、何の恩賞もなかったのでございます。

源義家に付き従う関東地区の武将にも、分け与える領地も存在しないのでございます。

そこで源義家は、源氏伝来の領地を切り分けて関東地区の武士団に分け与えたのでございます

この源八幡太郎義家の御恩に報いる為に、流人生活の身分でありながら平氏打倒の旗を挙げた源頼朝の陣に馳せ参じたのでございます。

良く云う御恩と奉公の関係性でございます。