令和4年3月2日の出来事❤

筋肉トレーニングは8割りは実行しました。

朝入酸素運動は、今から実行します。

朝我が家の宗派浄土真宗本願寺派の読経は百%は実行しました

我が宗派浄土真宗本願寺派南無阿弥陀仏を唱えるだけでございます。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・現世利益和讃。

親鸞先生バンザイ🙌でございます。

法然先生バンザイ🙌でございます。

我が家の再興は間違い無しでございます。

我が事業の成功は間違い無しでございます。

平家全盛の時代に、源氏の老将軍として1人宮で歯を食いしばり頑張っていた人物が源三位入道頼政でございます。

この源三位入道頼政は、源頼朝と系譜が少し違うのでございます。

源満仲と云う人物には、息子二人が存在したのでございます。

源頼光と弟源頼信でございます。

源頼光は、近畿地区に数多の領地を父親源満仲から相続したのでございます。

一方で弟源頼信は、関東地区に進出して鎌倉を拠点に自らの力で領地を拡大して行ったのでございます。

源頼光は、畿内地区の多田と云う地域に数多の領地を所有していたのでございます。

そこで源頼光を、多田源氏と云うのでございます。

源三位入道頼政は、源頼光流の源氏の系譜の人でございます。

一方で弟源頼信流の源氏は、陸奥國で謀反を起こした阿部一族討伐軍の総大将に選抜されたのでございます。

陸奥守兼務鎮守府将軍職を拝命した源頼義と息子源八幡太郎義家でございます。

源頼義と源八幡太郎義家は、関東地区の武士団を動員する事で13年間艱難辛苦を経て阿部一族を討伐したのでございます。

この合戦の後には、源頼信流の源氏系統が主流派になっていたのでございます。

源頼朝も、源頼信流の系統の源氏でございます。

しかしながら源義朝が、平治の乱に敗北した結果源頼信流の系譜の源氏は総崩れ状態に陥ったのでございます。

その中で源頼光流の系譜である源三位入道頼政が、平家の下で忠勤を果たしていたのでございます。

また源義仲の兄を自分自身の養子にして、源頼信流の系譜の源氏にも心を砕いていたのでございます。

しかしながら余りの平家の横暴に対して、源氏系統の血が騒ぎ後白河天皇陛下の第2皇子様を唆して平家打倒の謀反を起こしたのでございます。

源三位入道頼政は、後白河天皇陛下の第2皇子様に対して諸国に散らばる源氏の名前をずらっと並べ立てたのでございます。

此れを源氏揃いと云うのでございます。

この源三位入道頼政が並べ立てた源氏は、現在判っている系図上とぴったり符号ずらのでございます。

源三位入道頼政は、平氏の一門衆に信頼されている立場を利用して諸国の源氏の蜂起を促したのでございます。

平家一門衆は、各地域でバラバラに蜂起した源氏を討伐する為に各地域に軍勢を派遣する事になる。

そして手薄になっている平家一門衆の拠点に近い地位を利用して、自らが大将となり平家を滅ぼす事を企てたのでございます

しかしながら源三位入道頼政の蜂起は、未遂に終わったのでございます。

しかし源三位入道頼政の蜂起を契機として、諸国の源氏が出鱈目にバラバラに蜂起したのでございます。