令和4年1月9日の事【3】

源頼朝の先祖は、陸奥守&鎮圧府将軍源義家源頼義親子でございます。

源氏系統の家筋は、大きく分けて源頼光流&源頼信流が存在するのでございます。

源頼光は、領地を畿内地域に持ち官職も宮に近い受領【国司】を歴任したのでございます

一方で弟の源頼信は、元々は平氏の地盤の関東地区に進出して鎌倉を拠点にしたのでございます。

そして関東地区に進出した源頼信は、軍事貴族として地境問題に対して仲裁役をしていたのでございます。

すると陸奥国の有力者阿部氏が朝廷に対して税金の滞納をしたのでございます。

そこで朝廷より白羽の矢が立ったのが、源頼信流の源頼義源義家親子でございました。

源頼義源義家親子は、忠実に朝廷の意向を組み阿部一族を11年間を費やして討伐したのでございます。

その事件以降は、源氏の氏の長者は源頼信流の源氏系統でございます。

因みに我が先祖は、氏の長者の身分ではございません。

我が先祖の格式は、衛門府の尉の官職でございます。

また鎌倉幕府からは、九州地区は佐賀荘園の地頭職を拝命していたのでございます。

上司である肥前守護職は、大宰府勤務先が同じ大宰府の少弐殿でございます。

この少弐殿は、何と九州地区5ヵ国の守護職源頼朝から指名されたのでございます。

其れだけ鎌倉幕府御家人たちは、暴力集団であり喧嘩には自信たっぷりでございますが勉強が苦手分野でございます。

そこで朝廷の仕組みや仕来りに明るい少弐殿は、欲しい人材でございました。

因みに我が先祖も、源頼朝は欲しい人材でございます。