令和4年2月12日の事【2】

筋肉トレーニング&体操は実践しました。

朝入酸素運動は実践しました。

朝我が家の宗派浄土真宗本願寺派の読経は実践しました。

我が家の再興&復興は間違いございません。

我が事業の収益発生は間違いございません。

源平合戦の最大級の功労者は、やはり源九朗判官義経と家来筋の活躍が数多存在したからでございます。

京都で公卿集団や後白河天皇陛下から、田舎武者として毛嫌いされていた源木曽患者義仲を討伐したのも源九朗判官義経の功労が大でございます。

また平家一門衆を、一ノ谷の奇襲攻撃で撃退し力を削いだのも源九朗判官義経の功労でございます。

また屋島の合戦で平家方にダメージを与えて、最終的な合戦壇ノ浦の戦いに追い込んだのも源九朗判官義経の功労でございます。

そして源平合戦の最終戦壇ノ浦の戦いでは、平家方の船⛵の非戦闘員【漕ぎ手】を射り殺したのも源九朗判官義経の指示でございます。

しかし最終的決戦場壇ノ浦の戦いでは、平家方の猛将平能登守と云う武士との一騎討ちで唯一源九朗判官義経が敵わない武将でございました。

能登守は、源平合戦の時には23歳でございました。

武家貴族階級の平家とは云え、各國の国司を歴任していた時には諸国の武家の棟梁家として相談や対応をしていたのでございます。

あの平清盛も、若い頃には各地区の国司を歴任していたのでございます。

平清盛の時までは、武士団の武家貴族階級平氏に求める事柄を把握していたのでございます。

ところが平清盛が、生え抜きの公卿を飛び超市て大政大臣に指名されて後は武家貴族の身分を忘れて貴族化してしまったのでございます。

しかし平能登守は、武家としての鍛錬を欠かす事は無く鷹狩や素振りや相撲などの武家が日々行う事を確実にこなしていたのでございます。

そして源平合戦壇ノ浦の戦いで平能登守と源九朗判官義経が直接対峙する場面に遭遇したのでございます。

源九朗判官義経は、武士の技で唯一平能登守に優位な跳び技を使い隣りの船⛵に飛んだのでございます。

しかしながら平能登守は、組技や刀技や弓矢の技全てに源九朗判官義経に勝っていたのでございます。

ところが跳び技だけが、源九朗判官義経に劣っていたのでございます。

平氏一門衆が、最終的に公卿化して貴族階級の生活スタイルに馴れ親しみ武家貴族としての振る舞いを置き忘れた為に源氏方に敗北したのでございます。

しかしながら平能登守のような軍事集団としての武士の本分をわきまえた平氏の公達も少しは居たのでございます。