令和4年2月8日の事【1】

筋肉トレーニング&体操は8割方達成でございます。

内容はダンベルトレーニングでございます。

朝入酸素運動は5割達成でございます。

引越しすると、手続き手続きで死にそうでございます。

また明日は雪模様のようでございます。

我が家の宗派浄土真宗本願寺派の読経の実践は実行したのでございます。

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・現世利益和讃。

親鸞先生バンザイ🙌でございます。

法然上人バンザイ🙌でございます。

我が家の再興&復興は間違い無しでございます。

我が事業の年収目標値は、二百万円でございます。

関東地区の北条家を、天下統一寸前の豊臣秀吉小田原城に攻め込んだのでございます。

関東地区の北条家は、上杉家やその他有力大名を退けて関東地区の武士団を纏め上げていたのでございます。

しかし畿内地区や九州地区や四国地区の制圧に成功した豊臣秀吉は、関東地区と東北地区の大名を統制する事に力を入れたのでございます。

そして豊臣秀吉は、北条家に味方する各地区の大名を討伐する為に家臣筋を派遣していたのでございます。

埼玉県行田市忍城の城主成田家の討伐軍の大将には、石田三成を指名したのでございます。

そして石田三成参謀本部長には、大谷吉継長束正家の二人を付けたのでございます。

成田家では、豊臣秀吉に降参する事で家臣筋は合意形成が出来ていたのでございます。

ところが石田三成参謀本部長として参陣していた長束正家の欠点が見事に出てしまったのでございます。

長束正家は、弱い者には強く対応し強い者には弱腰な対応をするのでございます。

石田三成が率いる軍勢は、五万騎馬でございます。

一方で成田家の軍勢は、三百騎馬でございます。

この軍勢の差が歴然としていたので、長束正家は成田家の主君筋に対する対応が横柄極まりない対応になっていたのでございます。

我が軍勢は五万騎馬であるぞ。

早く降参するしか命が助かる道は無いぞ。

此方も暇では無いのである。

色々と忍城での後始末が数多存在するので早く答えを出せ。

そしたならば大将の命だけで、残りの兵の命は助けても良いぞと云ったのでございます。

この長束正家の横柄極まりない態度に対して、本来的には物静かな成田家の総大将が云ったのでございます。

今までは、降伏する予定でございました。

しかし今考えが変わりました。

我が軍勢は、豊臣秀吉様の軍勢と合戦する事に決定しました。

西國の方々に、坂東武者の槍の味をとくと味会って下さいと云ったのでございます。

そして坂東武者が得意分野である、夜討ち朝駆け騙し討ちなどの西國の武士団には無い戦法で石田三成の軍勢を苦しませたのでございます。

五万の軍勢と三百騎馬が互角に合戦していたのでございます。

そして何と成田家の主君筋小田原北条家が、豊臣秀吉に降伏したのでございます。

成田家の主君筋小田原北条家が降伏したので、成田家は合戦する大義名分が存在しなくなったのでございます。

石田三成は、成田家の主君に対して今回は丁重に事の次第を伝えたのでございます。

そして小田原北条家方の城で、最後まで降伏しなかったのは忍城だけでございました。

この合戦を誘発した長束正家豊臣秀吉のお気に入りの武将でございます。

今回の長束正家の失態に対して豊臣秀吉は、所領を減らすどころか加増したのでございます。

此れも長束正家特有の上には弱腰で頭が引く、世あたり上手な特技のなせる技でございます。