私は梅雨から秋にかけてが一番大大嫌いでございます。
その理由は、ムカデ&スズメバチ&毒ヘビ&毛虫が数多出没するからでございます。
私自身は、7年前に寝込みをムカデに襲われました。
其れ以後は、防護服を身に纏い椅子に座り夜更けを待ち続けます。
そして寝る時には、蚊帳に滑り込みようにしてムカデを遠ざけます。
また次の日に着る服は、裏返し裏返し虫がいない事を確認してから蚊帳に素速く入れ込みます
また椅子に座っている時にも、毎回足元を観てムカデがいないか確認します。
そしてマイナス85℃の凍結スプレーを買い込んで来ました。
このスプレーを吹き付けて、ムカデをカチカチに凍結する予定でございます。
ところが戦国時代には、ムカデは縁起ものであり武将は好んで兜に飾り付けたり旗印にしたりと重宝された生き物でございます。
私自身も元々は武家出身であり、ムカデを殺傷したくはごさいません。
しかし一度刺された身には、ムカデが恐ろしく恐ろしくたまりません。
私自身が戦国武将だとしたら、一番に陣を抜け出し卑怯者の烙印を押されること間違いごさいません。
でも荒木村重と云う猛将でも、織田上総介信長の仕打ちが恐ろしくて有岡城🏯から家臣筋と妻子を置去りにして逃げ出してしまいました。
織田上総介信長が、本能寺の変で明智日向守此当光秀に討ち取られると隠れ暮らしていた毛利家から豊臣秀吉の元に出頭して来ました。
しかし荒木村重の一族は、皆殺しの憂き目にあっていました。
ところが村重の息子一人が行き残っていました
其れも武将としてでは無く、狩野派の絵師となっていたのでございます。
豊臣秀吉は、荒木村重の息子を何処其処の十万石程度の大名にしてやると云いました。
でも大名就任を拒否した事は正解でした。
後々には豊臣秀吉の恩顧の大名たちは、徳川家康により大名家断然の憂き目をみたのでございます。
其の他、豊臣秀吉恩顧の大名家は次々と断然の憂き目に逢いました。
徳川家康は、うぐいすが泣くまで待つぞホトトギスと云う歌まで読んでいるのでございます。
徳川家康恐ろしや恐ろしやでございます。
我が家の宗派である浄土真宗本願寺派も、本願寺派の西と大谷派の東に2分割さるました。
この2分割により、浄土真宗も以前のような勢力を失いました。