八幡太郎有り難や

今日もブログ1人訪問者が現われた。

何と有り難い事であろうか!

源義家は、あまりにも武勇に秀でていたために生え抜きの貴族たちから八幡太郎恐ろしやと揶揄されていた。

私の現在の心境はと言えば、ブログ訪問者の方々に対して八幡太郎有り難やと云う心境であろか。

ブログ月収一万円を目指して初めたものの、一万円はほど遠く1円もほど遠い。

しかし佐賀藩士山本常朝が表した葉隠の教えに従い、主君のためならば命を投げ出す覚悟で取り組みたい。

そして武士とは、死ぬ事を見つけたり。

あの真田左衛門尉幸村が、大阪夏の陣で相手方の大将徳川家康の陣中目掛けて遮二無二に進んだ。

この真田左衛門尉幸村の側にピタリと付き従った忍がいた。

又太郎とお香と云う二人の忍者だった。

真田左衛門尉に向かって来る徳川家康方の忍を闇討ちにして死にもの狂いで切伏せた。

その間に真田左衛門尉幸村は、徳川家康の陣中に突入した。

真田左衛門尉幸村は、徳川家康の首を討ち取ったと想った。

ところが討ち取られたのは徳川家康の影武者だった。

それも家康の影武者は、真田左衛門尉幸村の可愛くしていた末っ子の妹の旦那様だった。


名前は滝川一益である。この滝川一益の父親は、織田上総介信長の家来であリ関東方面総司令官であった。


この滝川一益の子供を、真田家が引き取り婿養子にしていた。

滝川家は、織田上総介信長が滅んだ後には豊臣秀吉に反抗した。

そこで真田家が匿って、真田家の婿養子にした。

真田左衛門尉幸村は、滝川一益を討ち取リ徳川家康の陣から去った。

そして死に場所を探してさ迷っていた。

すると誰かが近づいて来る。何と又太郎とお香であった。

3人は座り込んで話した。

我は死ぬ時は、又太郎とお香と死ぬるような気がしていた。

それが今現実世界になったぞ。何と有り難いものぞと言って語り合った。

この3人の光景を見ていた徳川家康方の武士も涙を流した。

そこで薩摩の島津家に相談して、九州の薩摩に連れて行った。