弘法大師空海

日本国の佛教には、大きく分けて顕教密教に分かれます!

顕教は、仏の教えを外に示して人々を極楽浄土に導いて行く事

一方密教は、呪文や加持祈祷など外から見ると怪し気な儀式により人々を極楽浄土に導く事。

朝廷では大陸の唐の国に、日本国の優れた人々を派遣して佛教の教義を習得させた。


この遣唐使船⛵の中に弘法大師空海と、比叡山延暦寺の開祖最澄がいた。

最澄は秀才肌の人であり、弘法大師空海は天才的超人的な人である。

最澄は、日本国国費留学生として唐の指導者の型にはまった勉強を行った。

一方弘法大師空海は、日本国に居る時には既に佛教の教えの大半を習得していた。

弘法大師空海は、国費留学生としての立場でありながらも唐に居る超人的な人物の元に出かけでは教えを習得していた。

この教えこそが、弘法大師空海が習得した密教である。

比叡山延暦寺を開いた最澄は、何年間も型にはまった勉強をした。

最澄も秀才ぶりを発揮して、唐の指導者の教えをすべて吸収した。

最澄は、唐に派遣する前から朝廷より国家鎮護を目的にする比叡山延暦寺の座主就任が決まりっていた。

最澄も秀才肌なので、自分自身が一番出来る男であると曲解してすべて学び取る事を無事終えたと考えた。

一方弘法大師空海は、密教の先生からの教えを1週間で学び取リ残り時間は唐の街で遊んで過ごした。

そして2年間の留学生活を終了後、遣唐使船🚢で日本国に帰国した。

最澄は、朝廷からの約束通りに京都の山奥比叡山延暦寺を開いた。


比叡山延暦寺は、日本国の鎮護国家に指定されて大くの秀才たちが学んだ。


一方密教を習得した弘法大師空海は、血筋が地方自治体の役人クラスの家柄であり朝廷から寺を与えられる事もなかった。


そこで弘法大師空海は、地元讃岐国に帰り四国各地で密教の修行を行いながら農業土木や河川工事や病人の治療などの社会貢献活動を行った。


この弘法大師空海の活動は、四国4カ国に京都から赴任していた国司により朝廷の耳👂に入った。


朝廷では、京都に東寺を弘法大師空海に与える事になった。


弘法大師空海は、習得した密教の秘法を駆使して病人を治癒したり農業土木を駆使した人々の発展に寄与した。


比叡山延暦寺の座主に就任していた最澄は、悔しい事柄ではあったが弘法大師空海に頭を下げて密教の教えを乞うた。


弘法大師空海は天才である。

最澄に対して密教の秘法を惜しむ事なく伝授した。

しかし秀才最澄でも、密教の秘法を完全に習得する事は出来なった。

だから比叡山延暦寺での密教は中途半端であり、やはり密教を習得するためには弘法大師空海が開いた東寺に行く必要性があった。


朝廷では、弘法大師空海に対して密教の聖地である和歌山に領地を与えた。