令和4年3月3日の出来事❤

朝入酸素運動は7割り達成でございます。

朝筋トレは7割り達成でございます。

朝我が宗派浄土真宗本願寺派の読経は7割り達成でございます

南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏・現世利益和讃。

親鸞先生バンザイ🙌でございます。

法然先生バンザイ🙌でございます。

我が家の再興は間違い無しでございます。

我が事業の成功は間違い無しでございます。

鎌倉幕府の一番の国難と云うと大陸から我が國に攻め込んで来た蒙古来襲でございます。

現在風に云うと、アメリカ軍とヨーロッパ軍の連中が我が國に攻め込むのと同じでございます

鎌倉幕府執権職北条時宗は、若干18歳の若武者の立場で武家を束ねる必要性に迫られたのでございます。

鎌倉幕府御家人たちの中にはのらりくらり戦法を主張する大名や小名が数多存在する中で北条時宗は徹底抗戦を主張したのでございます。

北条時宗は、舎弟を総大将に鎌倉幕府御家人を動員したのでございます。

しかしながら最前線の九州地区の武士団が、北条時宗が一番頼みにする集団でございます。

当然の事でございます。

我が先祖も、肥前國佐賀の地頭職として博多湾に参陣したのでございます。

肥前國の守護職は、我が先祖の上司である少弐殿でございます

少弐殿は、北条時宗から副大将に指名されたのでございます。

九州地区の守護職や地頭職たちは、常に大陸からの圧迫を受けていたのでございます。

また九州地区の武士団は、大陸との貿易にも従事していたのでございます。

しかしながら我が先祖は、大の外国人嫌いで名を馳せていたのでございます。

戦国時代にも、我が先祖の惣領家だけがバテレン人との貿易を一切禁止していたのでございます。

モンゴル帝国の軍勢は、壱岐國と対馬國に攻め込んで来たのでございます。

対馬國の守護職は、平氏の流れを汲む武士でございます。

一家一門衆80騎馬が、モンゴル帝国軍20万の軍勢を1日間押し込んだのでございます。

しかしながら多勢に無勢でございます。

対馬國の守護職平氏の一門衆は皆が玉砕したのでございます。

しかし対馬國の守護職大名の合戦振りに恐怖心を抱いた、モンゴル帝国の軍勢は壱岐國には攻め込む事無く博多湾に向かったのでございます。

九州地区の武士団は、少しは大陸の情勢事を把握していたのでございます。

そこで昼間は合戦をゲーム感覚で行い夜討ちする事に集中したのでございます。

夜な夜な武士団は、小船に乗り込みモンゴル帝国の船に近ずいたのでございます。

そしてモンゴル帝国の軍船に乗り込んでは、切れ味鋭い日本刀で外国人を斬り殺したのでございます。

大陸の軍隊は、色々な國からの徴兵であり日本國の武士団のように団結力に欠けていたのでございます。

また大陸の軍隊は、集団戦法であり一対一の合戦には不向きでございました。

一方で日本國の武士団は、一対一の合戦を得意分野にしていたのでございます。

鎌倉時代には、先ずは言葉闘いにより自らの系譜を堂々と語るのでございます。

其れも弁舌爽やかにでございます。

系譜も優れて弁舌も爽やかに語ると、相手方の武士は一瞬躊躇するのでございます。

この言葉闘いを有利に勧めた武士は、終始有利な合戦を展開出来るのでございます。

モンゴル帝国の軍隊は、20万騎馬の大軍を活かす事が出来ずに日時だけが過ぎて行ったのでございます。

そして遂に我が國特有の台風シーズンに突入する事になったのでございます。

モンゴル帝国の軍隊は、我が日本國の武士団に悩まされ最終的には台風シーズンに突入し最大級の台風に呑み込まれてしまったのでございます。

我が國は、軍事大国でございました。

あの戦国時代にも、スペイン人やボルトガル人などのバテレン人は、表向きはキリスト教布教活動でございます。

しかし本質的には、我が國の情勢調査研究でございます。

バテレン人は、本国に手紙を送り付けていました。

内容は全て、日本國に攻め込むと返り討ちになる事を主張したのでございます。

あの戦国時代には、織田上総介信長を筆頭に、日本國全土に勇猛果敢な武士団が数多存在したのでございます。

我が國は合戦には本来的には強いのでございます。

当然ですが、我が先祖も強いのでございます。

私も元武家でございます。

また足軽大将5石取りの武士階級でございます。

そして剣道1級の腕前でございます。

また糖尿病患者でございます。