令和4年2月10の事【3】

室町時代には、足利家一門衆が各地区の守護職大名として赴任していたのでございます。

足利幕府管領家には、細川家&斯波家&畠山家の家筋の人が交代で就任していたのでございます。

管領職は、室町将軍職を補佐する権限が多大な役職でございます。

室町将軍職の力が存在した時には、三家の家筋が交代制で管領職を拝命していたのでございます。

ところが足利将軍家の権威が弱くなると、三管領家が職を巡って合戦するような有様になってしまったのでございます。

そこで斯波家&細川家&畠山家の家筋の人たちは、日本全国の守護職を拝命した時には土地の実力者をスカウトしていたのでございます。

やはり家筋の惣領家の人が有能だけでは、管領職を射止める事は出来いのでございます。

在る時に斯波家は、九州地区の肥前國の守護職を拝命したのでございます。

斯波家は、肥前國に守護職大名として赴任すると現在の長崎県諫早市辺りを領地にする西郷氏が存在したのでございます。 

この西郷氏は、何事にも精通した好人物でございました。

そこで斯波氏は、肥前國の半分を領地に与える旨の約束手形を渡したのでございます。

また斯波家の執事職の役職も付与したのでございます。

斯波家に代々家臣筋として忠勤を励む武士からは不満も出ましたが斯波家は足利家一門衆であり武家貴族の名門筋でございます。 

西郷氏の守護代就任に対して異論は出ました。

しかしながら御大将の決定事に対しては、従う他はなかったのでございます。

ところが斯波家一門衆が、応仁の乱の合戦に参加した間に三河國の権利を主君筋の斯波家から西郷氏は奪い取ったのでございます。

この事を堺として、家臣筋が主君筋に替わり國の実権を掌握する輩が数多出現して行ったのでございます。

あの下我上の実権を力により奪い取る下剋上の走りでございます。

因みに西郷氏の子孫が、あの薩摩藩西郷隆盛先生でございます

武士も今以上に、各地区を転勤族をしていたのでございます。

私自身のような普通の能力の持ち主は、転勤族では無く自営業者向きでございます。