令和4年21日の事【1】

鎌倉幕府が創設して以来の最大級の国難が、日本国を襲ったのでございます。

その最大級の国難とはか、大陸に発生した元と云う王朝が我が日の本に対して交易を要請して来た事でございます。

しかし交易を求めて来た文章の中には、我が国を恫喝するような脅し文句が入っていたのでございます。

先ずは元からの使者は、京都の朝廷に皇帝陛下からの親書を持ち込んで来たのでございます。

公卿が集まり得意分野の公卿詮議【会議】を催したのでございます。

公卿集団の仕事は、文化活動が主たる業務範囲でございます。

そこで物騒な事柄は、殺人を生業にしている武家政権に丸投げする事を決めたのでございます

この時の鎌倉幕府の執権職は、北条時宗と云う武将でございます。

北条時宗は、産まれながらの武家を束ねる立場に育てられたのでございます。

歳は若干18歳の若武者でございます。

元からの使者を京都から鎌倉に呼び出して、北条時宗は何と元からの使者を斬り殺してしまったのでございます。

やはり坂東武者は、荒々しい側面を備えているのでございます

そして元からの使者を斬り殺した事が、皇帝の知る所となったのでございます。

元の皇帝は、またまた使者を日本国に送り込んで来たのでございます。

そして執権職北条時宗は、またも使者を斬り殺したのでございます。

元の皇帝は、憤慨し20万騎の軍勢を日本国制圧に送り込んで来たのでございます。

そして対馬國が最初のターゲットになったのでございます。

対馬國の守護職大名は、平氏流の武将でございます。

家臣筋は、たったの百騎程の軍勢でございます。

対馬國の農民は、後方に下げて平氏流の軍勢百騎で、20万騎の軍勢を3日間も食い止めたのでございます。

しかし多勢に無勢でございます

最終的には、対馬國の守護職大名の家臣筋は討ち死にしてしまったのでございます。

その勢いに乗り九州地区の博多湾まで攻め込んで来たのでございます。

ところが九州地区の武士団は、各地から続々と博多湾に集結したのでございます。

鎌倉幕府からも、執権職北条時宗の弟を大将に軍勢が参陣したのでございます。

しかし九州地区の地の利を理解している少弐殿が、今回の総大将に指名されたのでございます

こんな中で肥後國の地頭職で、竹崎李長と云う武将がいたのでございます。

この竹崎李長は、当時の分割相続の為に領地が0の状態でございました。

そこで親類縁者から借金をして鎧兜を調達して合戦に参加していたのでございます。

そして20万騎の軍勢の中に、家臣二人計三人で敵陣に斬り込んだのでございます。

竹崎李長主従三人は、1時間も敵陣の中で持ち堪えていたのでございます。

しかしもう無理と云う時に、百騎馬余りの武者が颯爽と竹崎李長を助けに馳せ参じたのでございます。

この百騎馬を率いる武将は、肥前國の住人で地頭職の白石左衛門尉と云う勇者でございます。

白石左衛門尉の機転の効いた現れ方により、島津家や我が先祖などの武将が20万騎の軍勢の中に斬り込んだのでございます

元の軍勢は、大陸各地からの寄せ集めの軍勢集団でございます

一方で我が国の武士団は、日本刀で斬り込む合戦する事を生業にしている軍事集団でございます。

最終的には、日本国の武士団優勢で合戦は終了したのでございます。

元の軍勢は、舟が存在する博多湾の沖に退いたのでございます

しかし日本国の武士団は、夜な夜な小舟で元の舟に乗り移り元の軍勢を日本刀で斬り殺して行ったのでございます。

そんな日本国の武士団優勢な時に、何と最大級の台風🌀が到来して元の舟は沈没したのでございます。

日本国の武士団は、強かったのでございます。

戦国時代にも、バテレン人が日本国を侵略する目的でキリスト教布教活動に来たのでございます。

ところが我が国では、戦国時代真っ最中でございます。

何と世界中の鉄砲の8割が日本国に存在したのでございます。

バテレン人は、本国に手紙を出しているのでございます。

日本国を侵略すると、絶対的に我々の国が敗北します。

日本国侵略は辞めるべきでございますと書いているのでございます。