令和3年12月30日の出来事。

やはり室町幕府の創設者足利治部太夫尊氏正3位の良い家柄に育った性格は、現在の良い家柄の子弟が募る慶應義塾大学卒業生に似ているのでございます。

足利治部太夫尊氏正3位は、同じ鎌倉幕府の各地の守護職大名との合議制で室町幕府を運営した。

しかし武闘派で足利家執事職高師直は、主君筋足利治部太夫尊氏正3位に各地の守護職大名を図に乗らせるべきでは無いと進言したのでございます。

ところが足利治部太夫正3位尊氏は、執事職高師直を叱りつけた。

室町幕府は、有力守護職大名から管領家四職と云う機関を設けたのでございます。

しかし各地の守護職大名の合議制では、室町幕府将軍職の権威を維持する事は出来なかったのでございます。

時には、室町幕府将軍職が、家臣筋の守護職大名に暗殺される将軍職も続出してしまったのでございます。

その中で桓武平氏の家柄でありながら、足利家執事職に使命されている伊勢氏と云う武士は取次衆と云う職を拝命していたのでございます。

しかし応仁の乱が京都のど真ん中で、各地の守護職大名が東西に別れて合戦したのでございます。

この合戦を取次衆として、東西の守護職大名間の意思を室町幕府将軍職に伝令役として走り回っていた武将が伊勢新九郎でございました。