源義経峠を越える事

源義経は、後白河天皇のお気に入りの武者となり兄源頼朝の命令に背いて5位の左衛門府の介に任官したのでございます。


源頼朝は、頼朝の許可なく朝廷から官職を拝命する事を固く禁止していたのでございます。



源頼朝は、武家の棟梁各の本分をわきまえていたので鎌倉幕府を鎌倉に置いたのでございます



そして最終的には、源義経の力により平氏一門衆を壇ノ浦の戦いで破り裂いたのでございます



源義経は、鎌倉に大将として兄源頼朝に褒めて貰えると想い凱旋したのでございます。



ところが兄源頼朝は、源義経の事を罵倒した上に鎌倉に入る事を禁止したのでございます。



源義経は、弁慶を筆頭に主従5騎で藤原秀衡が居る平泉に向かう事にしました。


しかし源頼朝は、諸国の武家に対して義経逮捕状を指示していました。



源義経主従は、日本海を北上して鎌倉方の追ってを免れる方法を採用したのでございます。



ところが後に加賀国守護職大名に抜擢される富樫と云う武士に、関所で逮捕寸前の状態でございました。



そこで活躍したのが弁慶でございます。



弁慶は、富樫の前で白紙委任状の紙切れを取出して勧進帳を堂々と読み挙げたのでございます。



富樫と云う武士は、源義経の指揮下の武士であり義経主従の顔を知っていたのでございます。



しかし役目上、源義経主従を取り調べる必要性がありました。



その上で壇ノ浦の戦いまで上役である源義経主従を、逃がす予定でありました。



ところが富樫の配下である武士が、源義経主従であると云い出したのでございます。



弁慶は、とっさに主君源義経を杖で殴り倒したのでございます



弁慶は、目に一杯の涙💧を流して主君源義経を杖で殴り倒したのでございます。



源義経の方も、また富樫と家臣筋たちも弁慶の態度に対して貰い泣きをしていました。



富樫と家臣筋は、源義経と弁慶はちと一緒に平氏一門衆と命懸けで合戦した間柄だったのです



源頼朝も、富樫の気持ちを汲んて加賀国守護職大名に抜擢したのでございます。



この富樫家は、鎌倉時代から室町時代を通じて加賀国守護職大名を拝命したのでございます