源十郎蔵人行家の事

後白河天皇の第二皇子様の望仁王が、平家一門衆の打倒を想い立ち諸国に散らばる源氏系統の人々に命令書を発行したのでございます。



望仁王は、後白河天皇の第2皇子様であり御歳30歳になられ智慧才覚も優れる人でございます。



しかし平清盛が、武士階級でありながら生え抜きの貴族階級を出し抜いて大政大臣従一位と云う過分な振舞いをしていたのでございます。



そして望仁王の弟で、僅か5歳の平家筋の高倉天皇陛下が誕生したのでございます。



30歳の望仁王様は、弟ではございますが僅か5歳の天皇陛下が誕生した事を悲観して平家打倒を想い立ったのでございます。



その平家打倒の方法として、武家の棟梁各である源氏一族に対して平家打倒の命令書を発行する事でございました。



この望仁王様の命令書を、各地に散らばる源氏系統の家々に配って回った人物が源十郎蔵人行家でございます。



源氏の嫡流家は、保元の合戦や平治の乱により壊滅状態でございました。


また源氏の嫡流家である源頼朝は、伊豆国流罪により流し者の身分になっていたのでございます。



源頼朝の監視員は、伊豆国の豪族北条時政と云う男子でございます。



ところが源頼朝は、北条時政の娘北条政子を騙して懇ろになったのでございます。 



そして或る夜に、北条政子源頼朝伊豆神社に駆け落ちしたのでございます。



伊豆神社には、関東地区でも有数な僧兵を抱え込んでいたのでございます。


伊豆神社の僧兵たちは、源氏系統の家々とはよしみが強く源頼朝北条政子を匿ったのでございます。



北条時政も、覚悟を決めて平家一門衆を見限り源頼朝に賭けたのでございます。



しかし北条時政は、伊豆国の中でも小豪族であり家臣筋も百騎集めれば良い位の武士でございます。



ところが北条時政は、近隣住民の三浦介や千葉介や畠山なとの大大名に何故か信用されていたのでございます。



そして北条時政は、関東地区の有力者を味方に付ける事に成功したのでございます。



そんな時に源頼朝の叔父に当たる源十郎蔵人行家が、望仁王様の命令書を配りに来たのでございます。



源頼朝北条時政たちは、平家打倒の大義名分が整ったと云って大いに喜んだのでございます



源十郎蔵人行家は、河内&美濃&尾張信濃常陸に散らばる源氏系統の人々に対して望仁王様の命令書を配り終わったのでございます。



そして各地に散らばる源氏系統の人々は、デタラメに各地で平家打倒の軍勢を整えたのでございます。


その中で一番勢力圏が強かったのが、関東地区の源頼朝だったのでございます。



ところが源頼朝は、叔父さんである源十郎蔵人行家を嫌い提携する事はありませんでした。



そこで源十郎蔵人行家は、同じ甥に当たる源木曽義仲の元に行く事にしました。



木曽義仲は、叔父さんの源十郎蔵人行家を暖かく迎え入れたのでございます。



この源十郎蔵人行家の諸国の源氏に配った命令書をきっかけとして、諸国の源氏が平家打倒の軍勢を整えたのでございます。



源十郎蔵人行家も、自分自身の軍勢を掻き集めて平家一門衆と各地で合戦したのでございます