源氏の武士の戦法の事

各地域の武士たちは、基本的には開発領主でございます。


しかし武士たちは、自ら開墾した領地に対して所有権自体が無く有力貴族や有力寺院や寺社の領地と云う名目で領地を守っていたのでございます。


ところが平清盛は、生え抜きの貴族階級を抑え込んで武家政権を始めたのでございます。



平清盛は、武士階級でございましたが地方に腰を根付かせて住んだ経験がありませんでした。



だから地方の武士団の希望を、上手く活かす事が出来ませんでした。



地方の武士団たちは、近隣の武士同士の領地争いの調停や平清盛自身の采配により土地の利用権では無く所有権を認めて貰う制度設計などを期待したのでございます。



ところが平清盛は、武士階級でありながら生え抜きの貴族の真似事をして自らは大政大臣従一位と云う官職に就任してしまいました。



そして各地の武士団の領地争いには、関与する事も無く平氏一門衆の官職拡張を主たる政治を行ったのでございます。



ところが同じ武家の筆頭各の源頼朝は、伊豆国の流人生活と云う惨めな待遇で過ごしていたのでございます。



しかし伊豆国の流人生活により、地方の武士団の政治的な要求を自ら会得したのでございます。




そして自ら平氏打倒の兵を旗上げしたのでございます。



源頼朝は、自らの政策資料を作成して諸国の武士たちに配達して廻りました。



この源頼朝が作成した政策資料には、地方の武士団が切望していた事が全部網羅されていました。



この源頼朝の政策資料を見た各地域の武士たちは、源頼朝の陣に名刺を持ち込んで来たのでございます。



しかし源頼朝の政策資料には、各地域の武士たちが行わなければいけない事が書いてありました。



其れは平氏一門衆の公達の首を討取り、源頼朝の元に持ち込む事が必須アイテムでありました。



しかし平氏一門衆の公達も、武家であり源氏と同じように強い武者が数多存在するのでございます。



そこで源氏の武士たちは、平氏一門衆の強い武者は避けて若い武者を狙い撃ちしたり強い武者の場合には源氏の武士が何人も集り大勢で袋叩きにしたりと卑怯な戦略で平氏一門衆の公達を討取ったのでございます。



この手柄によりて、源頼朝から領地の登記簿に自分自身の所有権を記載して貰ったのでございます。



そして源頼朝は、政治の中心地京都から離れていた鎌倉の地で武家政権を取り仕切ったのでございます。



しかし武士の全部を指揮下に編入する事は出来ませんでした。



武士の中には、朝廷や生え抜きの貴族や大寺院や寺社に奉職する者が数多存在したからでございます。