天台宗比叡山延暦寺の明雲座主流罪の事

後白河上皇陛下は、公卿や神社や寺が日本各地に所有権を持っている領地を任命した国司の力により私領地を減らすようにした。



そのための方策としては、院の息の掛かった武士階級の人を国司に任命して武力行使により私領地を増加させない事や今まで存在する私領地も武力行使により減じる政策を摂りました。



そして各地では武家出身の国司と、各地の神社領や寺の領地の事で国司と神社や寺との悶着が続出したのでございます。



その中でも後白河上皇陛下の側近であり、斬れ者だった西行と云う息子が加賀国国司に任命されたのでございます。



西行の息子は、早速に加賀国国府に赴任すると国司の仕事は家臣筋に任せて自らは白山神社が管理していた温泉街に出掛けては自らも温泉に入るし馬🐎も温泉で足を洗うと云う無礼な振舞いをしたのでございます。




現在では温泉街は、人間が楽しみに行く場所として定着しています。



しかし源平合戦時代には、温泉街は宗教団体との関係性が強く馬🐎の足を洗うとは神仏を恐れない振舞いだったのでございます。



そこで温泉街を管理する白山神社の僧兵たちと国司近藤師常との合戦に発展したのでございます。



此の近藤師常の行動は、父親の西光や後白河上皇陛下の意向でございました。




国司近藤師常は、国府に勤務する武官の職員も動員しましたが僧兵たちの勢いに押されて敗北してしまいました。



そこで武士の戦法夜討により、白山神社を焼き討ちしてしまったのでございます。



白山神社の僧兵は、加賀国国司と騒動を行した事は自らの力では解決手段が無いとして本寺筋である比叡山延暦寺に訴訟を代行して貰う事にしました。



そこで白山神社の神輿を担ぎ、加賀国から比叡山延暦寺に出向いて行きました。



白山神社の訴訟は、本寺筋である比叡山延暦寺の訴訟として朝廷との交渉事に発展しました。



比叡山延暦寺も、神輿を担いで京都まで掛け下リました。



比叡山延暦寺の神輿には、神様が宿っています



この神様の文身である神輿を、京都の街中に置き放しにされるのは公卿としては始末が悪い。



そこで神輿に帰って貰うためには、比叡山延暦寺の訴訟を聞き入れなければならないのでございます。




今回の比叡山延暦寺の訴訟は、西光の息子近藤師常を国司を解任して流罪に処する事が訴えの内容でした。



朝廷では、早速に公卿詮議が開始されました。



公卿詮議では、西光の息子近藤師常を加賀国国司を解任して仕事の讃岐国流罪に処する事で結論は出ました。




しかし後白河上皇陛下や、側近である西光は公卿詮議の結論を苦々しく思っていました。



そこで比叡山延暦寺の座主明雲を流罪に処する事を上皇陛下の権限で決定したのでございます



明雲座主は、伊豆国流罪として流し者になったのでございます。



この明雲座主が、当時の占い師の名人である安倍泰近に占って貰いました。



安倍泰近は、占いの結果を報告したのでございます。



占いの結果は、明雲と云う名前が悪いと云う結果が出ましたと報告した。



雲の上に日と月が有ります。



詰まりは、大洋と月を雲が遮っているので良くありませんと云った。



また明雲座主は、違う占い師を訪ねて占って貰いました。



そして占い師は云ったのでございます。



天台宗座主と云う身分の人でありながら、険難の相が無いかなどと心配される事がもはや険難の相の兆候でございますと答えた。