静御前が源頼朝の前で源判官義経を慕う舞を舞う事

源頼朝は、13歳の時に父親の源義朝と数多兄弟共に平氏と合戦を繰り広げたのでございます。



俗に云う平治の乱でございます。



この合戦に勝利した平氏一門衆は、平氏の惣領主平清盛を頂点に武家政権を打ち立てたのでございます。



一方敗北した源氏一門衆は、京都を抜け出す事に成功して先祖代々の家臣筋で尾張国知多半島の豪族の館に滞在中でございました。



源義朝と息子や源氏の家臣筋は、源氏の伝来の家臣筋である館に滞在したと云う事で安心仕切ったのでございます。



しかし源氏の伝来の家臣筋でありながら、心変わりして主人の源義朝と息子や源氏の家臣筋を風呂場で騙し討ちにしたのでございます。



源義朝の三男である源頼朝は、母親の素性が熱田神宮の大宮司職であり中級クラスの公家でございました。


そこで源頼朝は、源義朝の三男でありながら源氏の惣領主として父親に指名されたのでございます。



平清盛も、継母に源頼朝を助けるように懇願されたために源頼朝伊豆国流罪で済ませたのでございます。



そして伊豆国の大豪族である狩野氏の家臣筋北条時政を監視役に指名して流人生活を過ごしていました。



しかし平氏政権は、武家政権でありながら貴族政治を踏襲して日本各地の武士団の期待に応える政治を放棄してしまったのでございます。



そこで関東地区の武士団は、武家の棟梁の源頼朝を担ぎ出して平氏政権打倒の旗印を掲げたのでございます。



源頼朝は、良く関東地区の武士団を掌握して等々平氏政権を打倒したのでございます。



また源平合戦で功績があった弟の源判官義経も奥州の藤原氏の館まで追い詰める事に成功したのでございます。



源頼朝は、京都で評判である源判官義経の愛人静御前を鎌倉に連れて来て白拍子の舞を舞わせたのでございます。



すると静御前は、夫である源判官義経を慕う舞を鎌倉の御家人の前で舞ったのでございます。



源頼朝は、源判官義経を討伐する院宣を後白河法王様に賜っていたのでございます。



静御前は、自分自身の命懸けで源判官義経を慕う舞を舞い切ったのでございます。



この静御前の気持ちを汲み取っていた源頼朝の妻北条政子は、静御前の命を助けるように懇願したのでございます。



源頼朝が若い頃に、妻北条政子は父親の北条時政の指示を無視して源頼朝の手を取りて伊豆神社に駆け落ちした事を思い浮かべたのでございます。


その事以降は、源頼朝は妻の北条政子には頭が上がらなかったのでございます。



静御前は、源義経の子供を宿していました。


しかし源頼朝は、産まれて来た子供が女子ならば御家人の養子縁組をする。



でも男子の時には、首を摂る事を条件に妻北条政子の提案を承諾したのでございます。



そして源判官義経静御前の子供は、何と武将の子供としては立派な男子でございました。



早速に、御家人に命令して源判官義経静御前の子供は処刑されたのでございます。



そして静御前も、自らの命を投げ出して子供の後を追い自殺したのでございます。



また不思議な事に、静御前が死んだ時を同じにして源判官義経主従も源氏軍に追い詰められて自害したのでございます。



私自身も、出来る事ならば静御前のような私の事を慕い舞を舞う白拍子が良いと思い浮かべるのでございます。